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5.20.2015

大平洋の生態系に異変

ー以下は日刊ベリタというオンライン紙に掲載した記事ですー

北米大陸西海岸で、海の生物に大異変が起きているようである。今年初め頃からのニューヨークタイムズを始め、アメリカ西海岸の地方紙などに魚や海洋動物に次々に異変が起っていることが報道されている。日本沿岸ではどうか。あまり大きく報道はされていないが、報道されていないわけではない。これらの異常事のいくつかを記す。

(1)2015415日ニューヨークタイムズ:ワシントン、オレゴン、カリフォルニア州沿岸のイワシ漁を緊急閉鎖。これは、イワシの数がここ数年激減していて、ほとんど壊滅状態。産卵数が減り、ふ化・成長するものもわずか。イワシ群は、1950年代にも崩壊していて、それに似ていなくもないが、現在の状況はより深刻。これらは西海岸の地方紙、業界紙で(*1)
(2)2015年4月21日ニューヨーカー:ヒトデの大量死が進行中。これは病死のようであるが、その数はおびただしい。少なくとも20種のヒトデが消滅したようだ。 研究者によれば、福島からの放射能との関連性はなしとのこと。ニューヨーカーの他に数紙が報道(*2)
(3)ニューヨークタイムズ2015115日:科学者達は、「地上での生物の急速な絶滅と同じような現象が海洋で起きているようだ」と云っている。これは、雑誌「Science2015.1.16号でのMcCauleyらの論文に基づいている(*3)。
(4)ナショナルジェオグラフィー2015123日:アメリカ西海岸の海鳥の大量死は、いまだかってなかったことである。海水温の上昇かもしれないが、ヴィールスは関係していないようである。食物連鎖の底辺にある甲殻類(エビ)がさらに小さな種に置き換えられている。しかし、これほどの大量死は、単に食物連鎖の変化だけが原因ではないようだ(*4)。
(5)サンフランシスコクロニクル;NBC/CBS報道201555日:カリフォルニア北部海岸に3週間で5頭のクジラの死体が打ち上げられた。54日にはカナダバンクーバ−島の太平洋岸にもクジラの死体が(*5)

さて日本近海ではどうか。
(6)ロケットニュース24 2012614日:千葉県大原漁港に大量のイワシが打ち上げられる!地元の人「港はイワシで一杯。凄い匂いがしている」(*6)
(7)2013826日:福島原発事故前から奇形魚というのはちらほら発見されていましたが、福島原発事故以降はそれが更にふえているように感じます。実際、趣味で毎日のように魚釣りをしている人達からは、「初めて奇形魚が釣れた」とか、「奇形が多いような気がする」というような話が出て来ているのです(*7)
(8)2014412日:(和歌山)カツオ漁に異変、なぜ不漁?(*8)
(9)地球、海洋の異変北海道浦河町でのイワシ100万匹漂着(*9)
10)産経2015220日:異変!春呼ぶイカナゴ漁、過去最低の予想、産卵量は平年の1割か(*10)
11)イルカ大量漂着「冷水域でパニックか」国立博物館 2015411日:茨城沖に打ち上げられた大量のイルカ、専門家が調査した結果、17頭のイルカの肺が真っ白な虚血状態であった。内臓は全体的にきれいで病気や感染症の兆候はみられなかった(*11)。

 以上、最後の2つの記事を除き、主要メデイアに出たものではないので、その真偽のほどはこの筆者にはわからないが、地元の方にはすぐにその真偽を確かめることが可能でしょう。なお(*9)には、イワシが打ち上げられた写真がついています。おそらく、日本近海でも様々な事象が起っているのではないかと想像します(想像のみです)が、現地の方々にはすでにかなり情報が入っているのではないかと思われます。これらの現象と福島事故との関連などは現時点ではなんとも云えませんが、どうしてこうも多種類の生物が一時に異変を起こしているのでしょう。


(*1)http://enenews.com/emergency-closure-fishery-along-entire-west-coast-practically-babies-survived-2011-population-decimated-catastrophic-crash-collapse-severe-latest-series-alarming-die-offs-along-west-coast-mas
(*2) http://enenews.com/professors-largest-mass-mortality-associated-disease-recorded-place-along-west-coast-hundreds-millions-died-epidemic-wiped-20-different-species-sea-life-along-fukushima-coast-missing-video
(*3) http://enenews.com/column-sea-creatures-sick-dying-disappearing-alarming-rate-all-along-pacific-coast-radiation-fallout-fukushima-study-be-sitting-precipice-major-extinction-event-marine-wildlife
(*4) http://enenews.com/one-largest-mass-die-offs-seabirds-recorded-place-west-coast-significant-uptick-mass-mortality-events-marine-world-govt-ive-never-anything-like-experts-massive-massive-unprecedented-strong-po
(*5)http://enenews.com/scientists-mystified-unusual-strandings-large-sea-creatures-continue-west-coast-tv-3-weeks-5-dead-whales-beached-along-northern-california-coast-totally-new-strange-kind-eerie-odds-dead-whales-s
(*11 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150411-00000024-asahi-soci


5.08.2015

原子力に関する神話の払拭を


原子力に関しては、日本は特殊な位置にある。それは原爆を市民の上に落とされ、水爆実験の余波の犠牲にされ(第五福竜丸と関連事故)、そして4年前の福島第一原発の過酷事故など。そのため、日本には、様々な原子力に関連するいわゆる神話が作られてきた。そのいくつかを検討してみよう。そして皆さんに神話の真偽の判断を、できるなら払拭する努力をして頂きたい。

(1)日本では、兵器に用いられる場合は、「核」兵器とされ、平和目的に使用される場合は、「原子」力という言葉が使われ、核兵器の悪が、「原子力」発電という表現で隠されていると云われる。『原子力発電は核の悪とは別』という神話である。といっても最初に日本に落とされたものは原子爆弾と云われたし、現在でも核爆弾という表現は使われない。核兵器は、原子爆弾を含む包括的な表現である。いずれにしても、原理的には、平和目的であろうと軍事目的であろうと、(原子)「核」での反応に基づくもので、出て来るエネルギ—も、この核での反応(核分裂)の結果出来る大量の放射性物質も同じものである。このことを先ず、理解してから、原子力問題を考えなければならない。英語では、Nuclear weaponであり、Nuclear power (plant)とどちらもNuclear ()と表現される。
 そして、核での反応を人間がコントロールするのは非常に難しい。核分裂をコントロールせずにやらせて爆発させるのが核兵器であり、これをなんとかしてコントロールしながら発生するエネルギーで水を蒸気にしてタービンを回すのが原子力発電である。コントロールはともすると出来なくなり(事故に)、また出来た放射性物質の崩壊(放射線を出す)は、人間の力ではコントロールできない。

(2)20世紀の当初から発達した素粒子物理学が、原子の構造、さらに原子核、それを構成する核子、そしてさらにそれを構成する素粒子などの現象を解明してきた。その結果、(原子)核レベルの反応についてもかなりのことがわかった解明は、人類の素晴らしい成果である。そして、これを推進した物理学者は、非常にこのような成果に誇りをもっている。そのあまり、こうした物理現象を使った原子力発電こそは、人類にとって有用な、貴重なエネルギ—獲得法であると確信してしまっている(物理学者が多い)。そして、それに反対する運動(反・脱原発)は、科学の進歩に反するもので、人類にとって望ましくないと思い込んでいる。おそらく、これは、一般市民の考え方とは違うと思われるが、こうした物理学者が、原子力の専門家として、声を大にして反・脱原発運動を攻撃している。これは物理学者の狭量さを示すのみ(核反応が生み出す放射性物質の悪の無理解か無視)であるが、市民への影響は無視できない。これは、『科学への信仰』という神話としてよいであろう。

(3)日本へ原爆を落とした結果、日本市民には「核アレルギー」が蔓延し、人類全体に「原子」爆弾の悪を知らしめた。この印象を払拭し、原爆開発過程で作られてしまった原子力産業をさらに儲けられる産業にするために、アメリカのアイゼンハウアー大統領は、1953年に12月8日(大平洋戦争勃発日)に国連で「Atom for Peace」なる演説を行い、原子力の平和利用を強調した。そして、その平和利用である原子力発電を、原爆の被害を受けた日本にこそ植え付けることが、有効と判断し、日本に積極的に働きかけた。日本も戦後の経済復興期に、エネルギ—需要を満たすのに有用だという宣伝に、政府も民間も説き伏せられた。そして福島事故がおこるまでにはこの狭い国土に54基の原子炉が建設された。もちろん、この間に反対運動がなかったわけではないが、立地自治体への経済援助と、『原子炉の絶対安全』神話を浸透させてしまった。原発の危険性(非安全性)の警告はわずかにはあったが、原発企業も政府も多くの国民も耳を傾けなかった。
しかし、東電の福島第1原発の事故は、この神話を覆してしまった。大多数の国民は今や、この神話は信じていないと思われる。残念ながら、原子力推進側は、原子力規制委員会なる、推進者による公的機関(これは、推進者以外の人も加えバランスのとれた検討をすべきだが、そうなっていない)を設けて、より厳重な安全基準を作ったとして、それに合格しさえすれば、原発を再稼働できる体制を作ってしまった。これは、日本固有の問題で、アメリカでもフランスでもこれほどいいかげんなやり方をしてはいない。
この委員会の不当性(バランスのとれた構成になっていない)を国民が声を大に指摘し、正当な機関を作りなおさなければならない。なお、この委員会の委員長は、公然と「この規制に合格したかどうかの判断を下すのみで、そうしたからといって、安全を保障したことにはならない」とうそぶいている。現実は、でも合格したら、再稼働に向けて動いて行く。ここでの問題の基本に今回の福島事故の原因についての論争がある程度関係している。

(4)今回の福島事故は、東日本大震災とそれに伴う大津波によって引き起こされた。震度9.0の揺れは、原子炉にどんな影響を及ぼしたか、津波は?どちらがあの過酷事故の原因であったかという議論である。東電の公式見解は、津波が想定外に大きく、それが原因であったというものである。これは『津波が原因』という神話である。しかし事故の経過を詳しく辿ってみると、津波が主因であったとはとても云えない。公にはあまり報告されていないが、地震直後(津波以前)にすでに放射能の放出が観測されているし、多くの職員によって、地震によって、建物、配管などなどの大量の破損・崩壊が津波以前に目撃されている。もちろん、外部電源も地震によって切られた。これらの報告は、やがて起きた爆発などの事故は、地震によって原子炉そのものや付属配管や弁その他の損傷が原因であることを物語っている。もちろん津波がそれを更に悪化させた。この津波神話は、現在の規制委員会にも影響して、津波対策が強調されて、地震という、より可能性の高い現象への規制が軽視される傾向に繋がっている。

(5)起きてしまった事故の影響を隠蔽するために、原子力ムラは、現在盛んに『放射能安全神話』を様々な形で展開し、国民を放射能と共存することを許容するように仕向けている。これについては、先に報告した(落合、日刊ベリタhttp://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201504111028576)。

4.19.2015

放射能安全神話の罠


福島原発事故後には、反原発運動が多くの人の賛同を得て、大きな力となった時期があった。しかし政府・企業による様々な方策と、それに乗って、自分の身を安泰にしようとする科学者・専門家達による新たな「放射能安全神話」またの名「安心神話」なる策動が、国民を洗脳せんとしていて、そのために本来の「反原発」の気勢が削がれている。反原発運動の専門家が云うことだから正しいのだろうと、多くの市民が考える。
しかし、こうした専門家が云うことは、初期の反原発運動が問題にした、放射線の影響を過小評価しようとする原子力推進側のICRP(国際放射線防護委員会)IAEA(国際原子力機関)などの云うことを追随しているに過ぎない。残念ながら、多くの市民は、こうした言い分の正当性を判断しようとする努力をしようとはしない。23の問題点を考えてみよう。
(1)最も普及している神話は、「100 mSv以下では、目にみえる健康への悪影響(ガン)はない。現在の福島の放射線量からして、100 mSv以上になることはないから、安心していなさい。そんなことにくよくよするほうが、健康に悪いですよ。」このテーマの根拠は、広島・長崎の被爆者の追跡調査である。これには内部被曝は考慮されていないーこれは大きな問題だが、それはさておき、この追跡調査の最新版(LSS14)のデータ(*1)は、「100 mSv以下でもそれより高い線量での影響率を延長した線上にあり、100 mSv以下でもガン発症危険率は有意にある」ということを示していて、この神話の根拠は完全に否定されてしまった。診療に使われるx−線による発ガン率も、100 mSv以下でも明瞭に線量依存の危険率の上昇が観測されている(*2)。すなわち、この神話は完全に間違っているのである。安全な放射線量の下限はない(*3)。
(2)安心神話を補強するために、現在起っている明らかな高率の小児甲状腺ガン発症が放射能とは無関係と主張している。これが放射能と関連していることが判明すれば、安心神話の根拠が大きく崩れる。無関係の根拠とされているのは(a)チェルノブイリでは、小児甲状腺ガンは、4−5年後から急増し始めたー福島の小児甲状腺ガンは早すぎるー福島事故以前からあったものであろう。(b)検査が精密で、通常なら検出されないガンまで検出してしまった(スクリーニング効果)。(a)が間違いであることの根拠は、日本では一部でしか報道されていないが、チェルノブイリでは事故が起きた頃、甲状腺検査用の精密な機器がなかったのである。4−5年後にアメリカから機器が寄贈されて、始めて検出されるようになったのであって、最初の数年間に小児甲状腺ガンが発症していなかったかどうか不明(*4)。また、最近のデータによれば、小児甲状腺ガンの潜伏期間は1年ほどである(*5)。したがって、こんなに早くからガンが出てくる可能性は大いにある。(b)スクリーニング効果とするならば、福島全体で似たような検出率になるはずである。しかるに、甲状腺ガンの発症率の地域依存性が、放射線量の分布と対応していることがわかってきた(*6)。これはスクリーニング効果とは矛盾するし、放射能との関連を示唆する結果である。
(3)安心神話は、ガンへの影響を芯にしているが、放射能の影響はガンばかりではない。むしろガン以外の健康障害の方が、広範に見られる。しかし、こうしたことを報道するメデアはほとんどない。例えば、心筋梗塞が福島県で急増しているし、その分布は放射線量の地域分布に関連している(*7)。厚生省の全国の死亡原因の統計も分析すると心臓関係の死亡率が、福島で高くなっている(*8)。福島県立医大での診療データは、様々な病気を持つ患者が急増していることを示す。前立腺ガン(2010年と比較して2012年には3倍)、直腸ガン(3倍)、非外傷性頭蓋内血腫(3倍)、狭心症(1.6倍)など(*9)。福島以外でも病気を持つ人が増えている。

さて、安心神話は、耳に心地よい。だれでも、不安は解消してほしいと願っている。そこで、上に述べたような「安心神話に対する反論」は、福島の人達に恐怖を与え、避難できない人達に避難できないことへの罪悪感を煽るなどと、非難・バッシングされる。この非難・バッシングをする人達の先頭に立っているのが、先の反原発主張だが安心神話を信奉する専門家達である。この人達は、上に述べたような反論を正常な態度で反論する必要がある。なお、この事象の一つの例が1年前にあったマンガ美味しんぼに関連した「鼻血論争」である(*10)。これ関しても、専門家達の頭からの否定以外、充分に納得のいく反論(低線量では鼻血などでないという)は見当たらない。
安心神話が神話でなく、事実なら(それを証明すべき)、行き着く先は、反原発ではなく、原発容認である。すなわち、現在のような状態でも放射能は安全なのだから、心配はいらない(上のような状態でも心配する必要がないと云えるのだろうか)。ということは今後この程度の事故が起きても心配はいらないーだから原発はあってもよいという帰結になるはずだから。これは、現在の状況(日本で50基の原子炉全てが停止していても電力不足はない)からの帰結:原発の必要性はないーにも拘わらず、原発再稼働を目論む政府・電力会社の思惑に賛意を表明することと同じになる。なぜ、このような主張に国民は誑かされてしまうのだろう。
以上は、一般論であるが、最近発売されたという「放射線被曝の理科・社会—4年目の福島の真実」」(児玉、清水、野口、かもがわ出版)に対する批判になる。「そつぎょう」(松本春野、岩崎書店)という絵本が、福島の現状をなんとか許容するように勧める内容で、先の反原発を装う安心神話信者である専門家達が推奨しているようである。

引用
1)Ozasa, K. et al, LSS-14, Radiation Res., 177 (2012), 229-243
2)Eisenberg, M. J., et al, Canadian Medical Assoc. Journal, 183 (2011), 430-436
3)落合栄一郎、「放射能と人体:細胞・分子レベルから見た放射線被曝」(講談社、2014
4)Piers Williamson, The Asia-Pacific Journal, Issue 48, No.2, Dec. 8, 2014
5)Howard, J., “Minimum Latency and Types or Categories of Cancer”, May 1, 2013
6)2015.2.12福島県民健康調査検討委員会資料3−1より温品淳一氏による作図
http://www57.atwiki.jp/20030810/pages/202.html
7)明石昇二郎、宝島10月号(2014
8)小柴信子氏による厚生省の死亡統計の図式化による
10)落合栄一郎:「美味しんぼ」鼻血論争1、2、3(http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201405141002073201405171452266201405261351081

3.11.2015

放射能を学ぼうかいー第3回


東日本大震災に付随して 福島原発事故が起ってから4年がたちました。事故の処理は、非常に困難で、先行きが見えていません。その上、事故の際に放出された放射性物質は、最近の再検討によれば、チェルノブイリ事故のそれの2倍以上になるようであるし、まだまだ放出は続いています。放射能の影響と思われる健康障害も、福島の子供達にすでに117人の甲状腺ガンが発生したことをはじめ、様々な病気や健康不良が起っています。しかし、日本では、放射能問題を論じることは少なくなり、人々の関心も薄れがちなようです。事故後4年を機会に、この重大問題を忘れないためにも、現状を検討してみようと思い、下記の要領で会を催します。皆様の“質問”、“ぜひここが知りたい”といったこともお寄せください。



    放射能を学ぼうかいー第3

どなたでも参加できます。無料です。
話題:福島原発事故の現状、特に健康被害
講師:落合栄一郎
日時:2015年4月4日(土曜日)午后1時半ー4時 (討論時間を含む)
会場:Round House (Yaletown) Multimedia room
主催:VSA9
連絡先:eo1921@telus.net

11.21.2014

持続可能/縮小社会のあり方

2014年10月5日に京都で行った表記の講演のppt





















11.05.2014

貧富の差の更なる拡大ーどうするか?


日本ではさほど議論されていないようであるが、貧富の格差は急速に拡大しつつある。フランスの若き経済学者トマ・ピケテによれば、貧富の差が大きい状態は人類の歴史上、正常な状態で、20世紀中期にあった、格差が比較的小さく、中産階級が市民の多くを占めていた状態は例外なのだそうである。
人類の歴史をひもとけば、原始時代の少人数の集合体では、構成員の間の差はあまり大きくなかったが、社会が大きくなり、複雑になるに連れて、構成員の間に、権力・経済的な差が生じてきたことは明らかである。そして、絶対王制で頂点に達し、王とそれを取り巻く少数が、生きるのに四苦八苦する多数の上に君臨していた。いくつかの国では、その状態を革命によって崩壊させ、民衆の意思を政治・経済に反映できる議会制民主主義を打ち立てた。現在その民主主義が形骸化され、少数がまた多数を隷属させる状態に近づきつつある。
最近発表されたスイス銀行の「全世界の富に関する年次報告」(1)によれば、富の格差は世界的に増々拡大しているようである(2)。2008年のリーマンショック以来、世界の富は全体として増大している。この増大分の大部分は、すでに充分に富んでいる人間達の懐に入り、大多数にはあまり行き渡っていない。人口と富みの分布を付図に示す。内側が人口、外側が富の分布である。現在、上部10%(付図で内側の紫と緑)が全世界の富の87%を所有している。このことをよく考えてみてください。87%とはほとんど大部分といってもよい(富の部分の紫と緑);残り90%(大多数)の人々(人口の青と赤)にはほんの端金(富の青と赤)が行っているに過ぎない。トップ1%になると、48.2%を占有。ほとんど、全世界の富の半分をトップ1%の人達が独占していることになる。図で
                      
ご覧になるように、 紫色のトップ1% が、外側の紫色部分(1%の保有する富)が半分を占める。しかるに世界の人口の底辺50%(図では青)は、世界の富の1%弱を所有しているに過ぎない。これは大変な不公平であり、人類の大問題である。
日本では、アメリカその他の極端な状態にまで進展しておらず、まだ国民多数には実感がないのかもしれない。とはいえ、若者には日本の現社会に希望が持てず、国民の多数は収入が減少している。しかも現政権は、大企業優先、国民多数の利益無視の政策を次々に打ち出している。そのため、格差は徐々に開きつつある。奢侈な消費経済は高所得者層のために向上している一方、非正規雇用しか得られない、または正規雇用でも充分な収入がなく、日常生活に困窮する層が増えているようである。問題は、与党が多数なため、政府は、やりたい放題のことができることである。
どうするか。どうやってこの状態を抜け出し、より多くの人々が富を分ちあえる社会を作るか。
(1)民主主義を本来の形に再建:すなわち政治形態を市民多数の利益が実現できるようにする。これには、市民の多数が、自分達の置かれている状況を充分に認識し、それをより良い方向へ向けて行くにはどうしたらよいか、などを深く考えて、政治に参加する必要がある。実はこれが現在の最大の問題であろう。市民の多くがそういう自覚を持たず、権力・政権・大企業などのいわゆる1%が提供し、市民を幻惑するウソ、エンターテインメントなどに惑わされている。また、市民の意識を高めるに必要な情報を提供すべきメデアの大部分が、1%に押さえられていて、その役割を果たせない状況にある。多くの市民はすでに、苦境に喘いでいて、それから抜け出す、いや日々の生活をするのに懸命で、自分達の生活以外のことに意を用いる精神的余裕がない。もう一つ現実的な問題は、選挙制度である。
アメリカなどでは、宗教の影響が強く、宗教が教えると考えられる原理に固執する傾向が強く、それに基づいて、誤った概念が政治を支配している。それは、個人の自由のはき違えと、社会状況を無視した、社会福祉的政策の拒否が原因である。すなわち、貧乏になるのは、その個人の責任であり、そのために自分達の納める税をそうした人達のために使う必要は認めないという主張である。また例えば、国家による医療保険では、それを営む中央政府の干渉により個人の自由が奪われるとも主張される。もちろん、その上に、代表選出がカネに支配されている。これも、カネによる偽情報が真実を隠蔽し、カネを出す側に有利に働くように作用する。これも市民が、そうした偽情報に惑わされないようなちゃんとした意識を持たないことが基本的原因ではある。
こう考えると、本当の意味の民主主義を達成するのは、容易なことではない。おそらく、特殊な情況下や特殊な国では、実現可能ではあろうが、大方の国では今すぐとはいかない。
(2)正常な民主的政治が実現せずとも、ある程度の富の不平等分配を解消するような政策を少しづつでも実現させて行く:もっとも簡単なのは、高所得層への税率を高くすることである。現在富みの局在化に貢献している投資などの金融機関の規制を強化することも必要である。こうした政策を議会で成立させるように、民衆から圧力をかける。これは、国民全体でなくとも、10−20%ぐらいの市民が参加する組織的圧力をかけることができれば、可能であろう。
(3)革命:上の(2)のような民衆の圧力が功を奏して、改善が可能ならば、よいが、それでも体制側が動かないとするならば、民衆の不満は、暴力に訴える革命に発展するかもしれない。現在の状況では、すでに体制側は、大衆の反撥に備えて、軍事的対応を備えている場合が多いようである。ということは、革命は、体制側の暴力で鎮圧される可能性が高い。現在でもすでに反体制運動は、官憲の手で鎮圧されるケースが多い。いや、革命を起こす側が、現在のいわゆるテロ的な反抗の仕方により、体制側を撹乱させる可能性もあるかもしれない。
(4)少数による多数支配:1%が世界を支配し、99%はそれに隷属する。しかし、99%は、1%の提供するモノを消費できず、1%の闊歩する経済は、縮小する一方となる。1%は、その生活を維持するに必要な労働力を確保できればよいので、人類人口は、縮小する。それを積極的に推進する動きもどこかで行われているようである。この可能性はかなり高いように思われるが、なんとしても避ける努力が必要である。
(5)ではどうするか。多くの市民が考え、ある種の組織をつくり、議論を闘わせ、少しづつでも良い方向に進む努力が必要であろう。現在、憲法9条を守る会が、全国に7000程あるとのこと、これと同じように、草の根的組織を全国に作り、議論し、半年に1回位は集まって議論する、そして立法府や行政に提言する。また、高等教育での経済学などでは、今の時流にのった経済学を乗り越えた、根本的な経済の仕組みの変更への研究なども奨励する。 

(以上は、日刊ベリタ2014.10.29よりの転載)落合栄一郎

10.21.2014

Peace and Sustainability: Basis for Education


The following is an essay published by Eiichiro Ochiai in Global Educator, Winter, 2011, p14-17
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Humankind is currently in a deep trouble.  Whether human civilization will survive long is now really questionable.  An immediate issue is the economic crisis; the current capitalistic market economy is now critically wounded.  The basic idea behind the current economy is “growth” (of economic activities in terms of quantity), which is contradictory to the “sustainable human civilization”.  Our economic activities (consumption) have now surpassed the carrying capacity of the earth, and are on a brink of collapse.  Besides, a few individuals, the so-called “economic elites” have cleverly or grossly (depending on the point of view) steered the whole economic system into such a direction in which only they benefit from the economy and the great majority of humankind suffer economically.  The impetus for growth economy would make nations to compete for the limited resources on the earth; this threatens to lead to perhaps an ultimate war between big players.  In order for the humankind to avoid such dangers and establish a sustainable and peaceful civilization, all mankind, young and children above all, have to learn how to approach it.  This short essay tries to show very briefly what needs to be implemented in the education system for the purpose.   
     Peace and sustainability are intimately intertwined, and cannot be separated.  Peace is a precondition for sustainable human civilization, but peace on the earth would not be realized unless the human society attains a sustainable status.  These issues are the basics for human survival and hence should be the basis for education.  We will first discuss what “peace” and “sustainability” entail, how these states might be attained, and then how the issues should be incorporated in the education.
     Let’s focus on “Sustainability” first.  The word “sustainability” is not well delineated, and means different things to different people, it seems.  It should not be “to sustain a status quo”, though most often it is used to mean just that.  That is, it is often meant to sustain one’s condition without regard to how it affects others (other people, other communities, other countries, other living organisms, the environment, the earth as a whole, etc.). 
     Let us define “sustainability” here to mean that the entire human race, not just the advanced societies, sustains itself and that each and every individual of human race has a right and enjoy to live a best life within this sustainability constraint; this is the basic human right.  This does not necessarily imply that all the people on this earth should attain the same material standard.  Each region (country) has its unique and limited ecology, and the people in it should live more or less self-sufficiently and happily within the sustainable constraints, with some resources equitably distributed among regions.  In other words, renewable material (i.e., plants) can be cultivated and raised in each region to the extent of being capable of sufficiently sustaining (feed, clothe and house) the population.  Nonrenewable resources are distributed unequally among regions.  In a sustainable civilization, these resources would be regarded to belong to all human race and other living organisms.  These resources are distributed among different regions according to the need, and used in sufficiently sustainable manners.  This presupposes cooperation rather than individual egotistic competitive activities at every level at human endeavors. 
     Currently the people in advanced countries are enjoying enormously affluent material lives, at the expense of the people in the developing countries, the majority of whom are living miserably in terms of material. This is far from the condition of the sustained human civilization outlined above.  On the average, the humankind is currently using renewable resources in excess of renewable rate by more than 20%, and this is rising. 
     To attain a sustainable use of resources, the people in the currently affluent nations need to significantly reduce their consumption of energy and material, and measures should be taken to raise the wellbeing (in terms of material) of the people in the developing world, so that all the people on the earth should attain comparable levels of material affluence, though not necessarily the same level.  The overall consumption level should be much lower than the current level (i.e., overall by more than 20%).  The crucial point is that people in any region should feel they are living happy worthy lives.  To attain such a sustainable human civilization, with the majority of people feeling happy, is a very tall order.  But that is what we should aim at attaining in future.  We will discuss shortly how we may attain such a state.
     Now, let us turn our attention to “Peace” or rather “War”.  Many ancient civilizations could not sustain themselves and collapsed due to overexploitation of the environment.  Their living conditions were usually precarious, particularly in nomadic, pastoral regions.  A tribe in such a region might have been living reasonably well, but usually did not have any extra expendable luxury due to lack of proper technology and the territorial limitation.  They had to move to another place when their living had become untenable.  Or when another tribe tried to come and occupy their territory, they had to fight back to defend themselves by killing the invading tribe or capturing and enslaving them.  They needed to do so, because their territory simply could not accommodate another bunch of people.  The people created and resorted to a God who would protect them.  The God was a supernatural being, omnipotent, and the people were told that their God was “good”, protecting the people who believed in it.  But the other God another tribe believed in was “evil”.  Hence it was permissible to slaughter those people who believed in a wrong God.  Thus, nomadic people have created “monotheism” and they believed that they were “chosen people” by the true God, as, e.g., Zionists and their Christian supporters believe.
     In other words, “war”, i.e., to kill others to defend themselves became a normal human behavior, sanctioned by God, and codified by sacred manuscripts.  The war of this kind may be designated as “War of 1st kind”, a sort of natural condition for “war”.  This might reflects the ancient living condition of nomads, i.e., limited resources that could not be shared with another tribe, so that the invaders should not be allowed to coexist.  This spirit (animosity toward other tribes) seems to be still prevalent among many tribes, and also among people who believe literally in the sacred books of monotheism, despite the fact that humankind has attained an enormous improvement in the living condition in general, so that today people should be able to share and live together.  The ethnic conflicts still rampant in today’s world are essentially of this kind, though the basic reasons are varied, economic, cultural and political, and, maybe, not the basic survival need as in the ancient time.  
     An extension of this kind of war has become aggressive expansion of the territory, as seen in the war by Alexander the Great, that of the Roman empire, and the Mongolian invasion of the western half of the Eurasia.  War of this kind was fought beyond necessity; this is simply an aggressive kind of war (“war of 2nd kind”).  Colonialism prevalent in the 15th through 20th century was carried out by force; essentially it was “war of 2nd kind”.
     However, “war” in today’s world is often fought for the sake of financial benefit for some influential elites, though it is usually claimed that it is for the sake of security of people (i.e., protecting people’s lives and livelihood).  In reality, people are victimized; soldiers are killed and a large number of civilians are also killed as a collateral.  Meanwhile, some elites and corporations gain an enormous amount of money by providing war machines and supplies.  The Iraqi and Afghan wars are good examples.  They have little to do with the security of American people, though initially they were meant for preventing “Terror” attacks on the American soil.  They had a lot to do, instead, with the money making of the military-related corporations and the oil companies.  This is “War of 3rd kind”.
     “War of 4th kind” may be waged to secure precious resources.  This is in a sense an extension of the “war of 2nd and 3rd kind”, but it has a very different connotation.   Corporations forces the government to go to “war” in the 3rd kind, but the national government is the cause of war of 2nd kind.  Resources on the earth are becoming ever scarcer, and nations are eager to grab resources still available.  Take China as an example; of course there are a number of such candidates including India, Brazil and others.  The Chinese government, having such a large population, needs a large quantity of resources of all kinds to feed and make them happy.  It has been estimated that resources equivalent to those of two and a half earth’s is necessary for all the Chinese people to enjoy the material wealth comparable to that enjoyed by the people of the today’s advanced nations.  The Chinese government is trying to expand their sphere of influence so that it gains access to resources all over the world, especially in the resource-rich Africa.  The former colonial power and dominant nations, of Europe and the US, are also trying to secure the natural resources as much as they can, and seem to have already started to prepare for an eventual confrontation with China.  China is of course rapidly building its military power.  The confrontation could become a war (of 4th kind).  If this happens, the entire planetary civilization will be destroyed, as the major contenders are all with nuclear arsenals that have not been abandoned.   This has to be avoided by all means. 
     However, even if it (resource grabbing) is resolved peacefully, the consequence of such a pursuit of resource use will be a very rapid depletion of resources on the earth.  This will end, though in a different sense, in the demise of the current human civilization; in other words, such a civilization cannot be sustained long.
     The humankind is now at a very crucial moment in its history; our civilization as currently taken for granted is facing an imminent death in two directions.  One is “War” and another is “Excessive consumption of material (resources of both renewable and non-renewable)”.  “War” may be inevitable, i.e., “Peace” may not be attainable, unless human race attains the wisdom of living within the sustainable constraints.  On the other hands, “Peace” is a precondition for a sustainable civilization, because “War” simply wastes precious human and material resources.  We need to realize that both issues, “peace” and “sustainability”, are two faces of the same coin. 
     Dr. Vanadana Siva, an eco-philosopher and activist began her acceptance speech at the Sydney Opera House for the 2010 Sydney Peace Prize with these words: “When we think of wars in our times, our minds turn to Iraq and Afghanistan. But the bigger war is the war against the planet. This war has its roots in an economy that fails to respect ecological and ethical limits -- limits to inequality, limits to injustice, limits to greed and economic concentration.”  She equates our current growth economy to the war against the earth, and implies that it is not sustainable.  But, changes needed to reduce the assault on the earth should include the abolishment of “wars by force on people and nations”.
     In order to attain such a sustainable and peaceful civilization, people have to learn to respect each other and other cultures, restrain one’s urge to own/consume more, and consider that non-violent resolution (not war) is the human norm in resolving conflicts, particularly those among nations.  And this has to be the basis for education (in its broadest sense) for everybody.
     The education starts as soon as one is born.  Her (his) brain will be wired through her (his) experience in every sense; interaction with the environment, parents, siblings, grandparents and others.  In this early life, the education is done mostly through the upbringing by parents.  Therefore it is up to their world view/ethical/value system, which has a strong influence on the child.
      When children come to the formal education, they will be subjected to the educational norm imposed by the authority, the majority of which still cling to the unsustainable political/economic view.  To change the formal education system requires awareness of people regarding its shortcomings.  It is difficult and cannot be accomplished soon.  Meanwhile, the people in the educational circle can start changing the fundamental tenets of educating children even within such a constraint as imposed by the authority.
     Here are some basic tenets that need to be learned by all the people in order for the humankind to sustain itself for long.  At the formal education level, these concepts should be conveyed to children, not necessarily explicitly, but be touched upon on every opportunity in many different ways of phrasing, in conjunction with any subject matter.  And some practices should be found to impress these concepts on children.

(1)  It needs to be understood by everybody that every human being is equal in every way despite different skin color and other physical characters.  No single human race can be regarded to be superior than others, i.e., a “chosen (by God) race”.  There is no such distinction in nature.
(2)  We, human, are only one of several million living species present on this planet, and are dependent for our livelihood on “Nature”, i.e., other living organisms, the environment (ecosystem, the earth), and the sun.  We should live in harmony with “Nature”.
(3)  There are limits to the material resources on this planet.  We need to use them very judiciously in order for the human civilization to last long.
(4)  To satisfy the above conditions (2, 3), people have to learn to restrain their urge to obtain more or consume more.  It can be termed “self-restraints” or “to know when enough”.  We need to regard “extravagance, excessiveness in possession” not desirable.  For example, one should not buy things beyond one’s capability, charging to a credit card.  It is a good thing for us to live modestly but happily.
(5)  The basis of economy should not be “to make profit” but be “to make happy as many people as feasible”. 
(6)  We have now enough, though barely, to share with all the people to sustain us, so that there is no need to resort to wars or other violent means to grab resources.  Cooperation and peace have to be the norm in human civilization.
(7)  For now, the resources on the earth are barely enough to sustain the current large population of human species.  But soon the population will likely exceed the carrying capacity of the earth.  In an estimate of ecological footprint, it is said that we have already surpassed the carrying capacity of the earth a decade ago and by more than 20% by now.  This is not simply the population problem, but we need to look into the population of human race, and have to learn to maintain it at reasonable level.   
(8)  War is an ultimate evil that is now promoted by people who gains from war, not for the security of people.  It is an enormous waste of human lives and resources, and of course causes enormous miseries for people.   

     There are other concepts (morals) to be eventually ingrained in the human minds for us to be able to sustain ourselves.  A critical thing in this regard is that children (people in general) develop a habit to evaluate carefully what they see everyday and on every occasion, to see if it may make sense in terms of “peace and sustainability”.  An example of “sustainable human civilization” in the near future is described by this writer in a book: “A Sustainable Human Civilization beyond the Current Sickened Human Civilization” (in Japanese, Hon-no-Izumi sha (Tokyo), 2013).  The third part of this book is available in English at http://www.amazon.com/dp/B007GGACSG

10.19.2014

今こそ「脱原発」の声を!



福島第1原発の事故より3年半を経過し、その事後処理の進行、いやそれがなかなか進んでいないことや子供達の甲状腺異常(ガンも含めて)もそれ以外の様々な健康被害が出ているにもかかわらず、政府、報道機関があまり報道しないために、福島事故の悲惨さ、重大さなどを人々が忘れがちになってきているようである。そして、原発再稼働を進める政府とその出先機関(規制委員)は、鹿児島県の川内原発を手始めに動かそうとしている。その規制委員の委員長は自ら「我々のやっていることは、安全を保障することではなく、規制基準(そのものも不十分)に合格したかどうかのみの判定である」と公言している。その上、今回の御岳山の噴火の予測不可能さに象徴されるように、日本およびその近辺の地殻変動が活発になってきていて、複雑な構造を持つ原発、しかも多くは老朽化している原発の安全性は、ますます減少している。
しかも、福島原発は、3つの原子炉が完全にメルトダウンしたという、人類がいまだ経験したことのない過酷事故であり、融けてしまった燃料棒をどうして取り出し、どう処理するか、誰にもわからない状況である。その上、冷却水はどんどん汚染されて溢れ、その行方は大きな疑問符。汚染された環境の除染による汚染物の処理は?
高汚染物である燃料棒の再処理工場は、いまだに充分に稼働していない。そのため、使用済み燃料棒は、山積みになっている。現在これ以上処理できないので、 使用済み燃料棒は、各原発が抱えこんでいる。
これでも、これ以上原発を動かして、事故の危険を増やし、いまだ完全な処理法がわかっていない廃棄物を増やそうというのであろうか。しかも、その廃棄物や、事故によって環境に放り出された放射性物質は、低線量でも生命にとっては危険なものである(落合「放射能と人体」(講談社)参照)。原子力産業側とそれに支配されている権力側は、いわゆる「100 mSv以下は健康に影響なし」というまちがった放射能安全神話を人々に植え付けて、危険きわまりない放射能との共生を人々に強いている。
経済的に原発は有利か。この神話もすでに充分に否定されている。現在主張されている唯一の利点は、原子力発電は、地球温暖化の原因とされる2酸化炭素を出さないと云うことである。これも充分には検証はされていない。すなわち、核分裂によって大量の熱を出し、その熱を利用して発電する。この間2酸化炭素は出ない。それは事実である。しかし、原発運営の全過程に必要なエネルギーを考慮に入れ、数世紀にわたる廃棄物処理・保管に必要なエネルギーまでも考慮にいれ、そのエネルギ—を2酸化炭素発生に換算するならば、2酸化炭素の発生量が化石燃料による発電と比較して、低いとはとても云えないであろう。その上に、原発の発電効率は低く(約3分の1)、発生した熱の3分の2は環境に放出されているのである。すなわち、原発は直接的に温暖化に寄与しているのである。これは原発周辺の海の生物の変化で充分に証明されている。
50基ある原発はこの1年間、1基も稼働しなかった。しかるに、日本の人々が節電に勤めたとはいえ、電力不足はなかったのである。電力会社が再稼働に固執するのは、稼働しない原発は、負の遺産になるからである。いずれにしても原発の稼働期間は、40年ほどにすぎないので、現在多くの原発は、廃炉処分にすべき段階にあるし、電力会社は、その準備をしてあるはずである。というわけで、廃炉処分は是非ともやるべきことなのである。それができないのは、電力会社の責任回避なのである。
現在、鹿児島の川内原発の再稼働が議論されていて、避難計画の不十分さなどが問題になっているが、非難しなければならない状況を想定しているわけである。ということは事故の確率がかなりあることを前提にしている。実際、安全性は、現在の規制基準では保障できないことは委員長自身がみとめていることである。しかも、今電力が不足しているわけでもないのに、なぜ再稼働なのか。電力会社と地元自治体の見かけ上の経済的安泰のみが唯一の理由であるが、これは、国民からの税に依存している。その国民の健康で安全な生活の権利を踏みにじってもよいのであろうか。
今こそ、原発の不必要性とそれが及ぼす国民の健康被害をこれ以上増やさないために、川内原発再稼働反対、日本の原発ゼロの早急な実現に向けて、日本国民は声を上げなければならない。(日刊ベリタからの転載)

8.10.2014

イスラエルのガザへの侵攻

以下は、日刊ベリタというインターネット紙に掲載されたモノからの転載である。

イスラエルのガザへの侵攻
(2014.8.06)

現在進行中のイスラエル軍によるガザ侵攻はジェノサイドそのものでしかもアメリカはじめ主要な西欧諸国は、見てみない振りをしている。というより、アメリカは、イスラエルの侵攻を肯定しているーそれはイスラエルが自衛の権利であると正当化することを支持することにある。さすがに、国連関係の学校などが爆撃された時には、非難のリップサービスは行ったが。
この問題の根本部分は実は、ユダヤ教からキリスト教へと続く宗教の問題ではないかと思われる。もちろんそれに付随した対イスラムの問題もかかわってはいるが。ユダヤ人が2000年前に、あのパレスチナの地から追われて、世界中にちらばり、しかもキリスト教徒のユダヤ排斥というとんでもない間違った概念に凝り固まった西欧人が、ついにナチス政権で、ジェノサイドという極端なやり方に至った。それに対する西欧側の反省(?)が、第2次世界大戦後の、ユダヤ人のシオニズム運動を助け、あの地からパレスチナ人を追出して、イスラエル国を建設した。これが現在の問題の発端である。
イスラエル人は、パレスチナの地彼らの唯一絶対の神から、ユダヤ人に与えられた土地であり、パレスチナ人は住んではならない、したがって、彼らを追出すのは、神の教えに従うことで、当然であるといった考えが染み付いていてのではないかと思われる。そして、ヨルダン川西岸の植民地拡大を公然と実施。パレスチナ人を押し込んだガザからも、いずれはパレスチナ人を追出すことを画策。そのために現在、様ざまな難癖をつけて侵攻。おそらく、欧米側が、断固とした態度を見せないことをいいことに、パレスチナ人追出しまたは、ジェノサイドを行っている。これは、ユダヤ教ーキリスト教における、絶対的神とそれを信仰する自分達が神によってばれたという意識・狂信に、根本のところで支えられているものと思う。イスラエル人の大多数が、このガザ侵攻を支持しているのは、そういうことなのではないかと思う。
 実際、イスラエルの政策・戦略は、こうした意識に基づいていて、「ダーヒヤ・ドクトリン」(ガザ・ドクトリン)と呼ばれるもので、2006年のレバノン攻撃で始まった戦略であり、住宅地を標的にして、攻撃対象とは不釣り合いな大規模な攻撃を行い、一帯を徹底的に破壊するという戦略だそうである(1)。シャロン首相の顧問も務めた人口学者ソフェルは、イスラエルがユダヤ‐シオニズム国家としてあり続けるためには、ガザのパレスチナ人を殺し、殺し、殺し続けなければならないと主張した(1)。それは、パレスチナ人が、増えてやがては、イスラエル人口を圧迫するという懸念からでもあろう。8月1日には、イスラエル国会の副議長モシェ・フェイグリンは、首相に呼びかけた書簡で、ガザ全土の征服と全戦闘勢力とその支持者の殲滅を呼びかけた。そして、「これは我々の国だ。。。我々だけの国だ、ガザも含めて」と云っている(1)。
自衛という正当化が妥当でるかどうか議論の余地があるが、イスラエル人とて、自らの領土拡張やパレスチナ人大量殺害が、世界的に認められ得るものではないことぐらいは、理性的レベルでは理解できるはずだと思う。残念ながら、宗教的狂信と政治的煽動、そして周辺国への恐怖心がその理性を殺してしまっているものと思われる。そしてこれには反イスラムという狂信も作用している。
イスラエル国民が、ユダヤ人とパレスチナ人の共存、またはパレスチナ人の国家との共存を認めさえすれば、この問題は解決するはずなのだが、今のところ、イスラエル側は、オスロ合意は反故にしてしまっている。こうなってしまった為に、パレスチナ側の戦闘派も、イスラエル撲滅を標榜せざるをえなくなっている。悪循環である。
 オバマは、現実的にこの状態から抜け出させることができる、現在のところ世界でたった1人の人間だが、それができていない。おそらく、ユダヤロビーによる政治・経済への圧力が非常に強いのであろう。しかし、その上に、キリスト教徒の大多数にも、宗教的信念を絶対視するという観念が染み渡っているのではないかと思う。神自身がそう云っているように、ユダヤの神はねたみ深いの有名だから、その言い分に従わなければならないと思い込んでいるのであろう。キリスト教の神は、ユダヤの神の狭量さを克服したはずなのだが、ほとんどのキリスト者は、ユダヤの神の観念を克服できていない。その上、西欧市民の長年のアンチセミテズムへの反省と、それを利用して、反イスラエル的言動を直ちに、アンチセミテズム(人種差別)と極め付けるイスラエル側への慮りも作用している。おそらくこのあたりの宗教的狂信から抜け出せない限り、この問題の根本的解決はないのかもしれない。現在(日本時間86日)72時間の停戦協定が発効している。その間にもっと根本的な解決への糸口が開かれるとよいが。
現実への政治的対応(根本的解決にはとても及ばないだろうが)は可能であろうし、積極的にすすめなければならない。アメリカ議会のイスラエル支持・武器提供を変更するよう説得すると共に、多くの国から、イスラエルの現在のガザへの武力侵攻を非難する声を上げることが必要であろう。現在、民間では、イスラエル製品のボイコットなど様々な動きがあるが、その影響力は大きくはない。国連でも安全保障理事会は無理としても、もっと強い非難の声を上げるべきだし、多くの国からの国家レベルでの批判が望ましい。エクアドルのモラレス大統領は、「イスラエルはテロ国家である」として、イスラエル人への自由入国ビザ協定を停止した。エクアドルの他に、中南米のブラジル、チリ、ペルー、エルサルバドルは、イスラエルへの抗議の意味で、大使を引き上げた。ウルグアイ、ブラジル、アルゼンチン、ベネズエラの大統領は、共同で、イスラエルの圧倒的な軍事攻撃に抗議の声明を発表した。こうした声を多くの国が上げるべきであろう。
(1)http://electronicintifada.net/blogs/ali-abunimah/gaza-massacre-price-jewish-state; http://electronicintifada.net/blogs/ali-abunimah/concentrate-and-exterminate-israel-parliament-deputy-speakers-gaza-genocide-planに基づいて、その翻訳・解説を行っている岡真理さんという方のあるMLへの投書に基づく。

7.08.2014

Atomic Bomb Exhibition/原爆展

Atomic Bomb Exhibition will be held as detailed below.  You are invited to attend.
原爆展が、パウエル祭に際して、下記の要領で催されます。是非、ご来場ください。



Atomic Bomb Exhibition

Time and Date: 11:00 am – 5:00 pm on Aug. 2nd (Sat) and 3rd (Sun).
Venue: The Japanese Language School at 487 Alexander Street, Vancouver
Sponsor: Vancouver Save Article 9
The exhibition will include: (1) Forty panels showing the atrocities of atomic bombs dropped on Human, (2) Screening of a documentary film relevant to the A-bomb dropping, (3) Slide show on “Nuclear and Radiation Issues”


原爆展
パウエル祭に下記の通りに原爆展が催されます。是非ご来場ください。

日時:8月2/3日(土日) 午前11:00—午後5:00
場所:バンクーバー日本語学校 at 487 Alexander Street, Vancouver
主催:バンクーバー9条の会(VSA9
内容:(1)原爆被害を示すパネル;(2)日本への原爆投下に関するドキュメンタリーフィルム映写;(3)スライド公演 “Nuclear and Radiation Issues”