9月11日のイベントと関連し、VSA9の世話人である賀上マサさんが中国から帰ってすぐVSA9関係者に送ったメールを、ご本人の許可を得て共有します。
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この1週間、中国での現代建築も興味をもって見たのですが、上海や南京での高層ビルやその他の最新の建築物を見て感じた事は、やはり中国建築の伝統と特徴が脈打っている事です。その昔日本や朝鮮半島から僧侶や学者が漢字や仏典を学びに長安等の都に渡った際、初めて目にする壮大な建築物を目にして感激又は畏怖の念を抱いたに違いないと思うのですが、1200年以上前の日本人が持ったであろう感慨と同じようなものを今日の中国建築に接した現代の私が持った事です。その意味では中国の歴史と文化の懐の深さを感じました。
又一人で安旅行をしながら店や駅やホテルなどで普通の市民と接したのですが、漢字を取り入れた (というよりそれ以前は表記する手段が日本語には無かったのでしょうが) という以外にも日本語そのものが中国語の影響を、特に発音で大きく受けていて我々日本人はそれを知らずに、又は意識せずに日本語を使っているという事実です。
漢字の音読みの事を言っているのですが、例えば、上海空港で蘇州行きのバスを待っていた際に出発定刻10分前になったので、バスが既にターミナルに来ているのかどうか、言葉では聞けなかったので、切符を取り出し出発時刻の数字を指差して (少しあせりの表情が私の顔に出たかどうかは分かりませんが)、質問に代えた所、向こうもすぐ察して返ってきた言葉が、”ミィライ”と私の耳に聞こえたました。反射的に頭に浮かんだのは、「未来:未だ来たらず」という漢字と漢文読み日本文で、多分その意味と漢字は間違っていないと思います。案の定、その蘇州行きバスは数分後に到着しました。日本語と中国語の繋がりを感じた一瞬でした。
それから、今日の上海からの飛行機の中では、隣の中国人だろう乗客は、飲み物サービスの時にほとんど"チャー、又はジャーと私の耳に聞こえた言葉を発し、何が出されるのかと見ていたら、これはお茶でした。日本語でもチャと発音するので、これは多分、茶が中国から朝鮮半島を経て日本に伝わった時点では、お茶は日本には存在せず、そのために中国語の発音がそのまま日本語になったのだろうと想像します。そう考えると、明治維新以後に西洋の外来語が多く日本語に取り込まれたように、もっと以前には中国語が外来語として日本語になったものが、又同様の理由で朝鮮語が日本語になったものも多くあるのだろうと思います。
その昔の日本人は、明治維新後に西洋に遅れを感じ、その文化を取り入れて追いつこうとしたように、中国、朝鮮半島の文化や工芸技術を憧れと尊敬の念を持って取り入れようとし、実際そうしたのですが、どうしてその経緯が葬り去られ、明治以降の侵略と現代までにつながる蔑視に向かっていったのかという疑問が出てきます。
この点は、黄 圭さんが土曜日に触れられると思うのですが、そして黄さんは福沢諭吉をその一人として指差しているようですが、同じ事を8月27日付けの週間金曜日812号で、安川寿之輔という名古屋大学の名誉教授で不戦兵士・市民の会福代表理事が述べていて、その記事(P.18)によると、
”福沢がやったことは、朝鮮と中国に対する丸ごとの蔑視・偏見の垂れ流しであり、おっしゃったように侵略の扇動でした。明治国家が朝鮮への介入を強化していく1880年代には、「朝鮮人は未開の民・・・・極めて頑愚・・・凶暴」 「支那人民の怯ダ(リッシン偏に需)卑屈は実に法外無類」 「チャイニーズ・・・恰も乞食穢多」 「朝鮮国・・・人民一般の利害如何を論ずるときは、滅亡こそ・・・其幸福は大」などと発信している。”と有ります。出典等は記されていませんが。
さらに安川氏は、同記事で福沢諭吉は1882年の「東洋の政略果たして如何せん」において、「印度支那の土人等を御すること英人に倣うのみならず、其英人をもクルシ(ウ冠に八、その下に君)メテ東洋の権柄を我一手に握らん」 「日章の国旗以って東洋の全面をオオ(手偏に奄)ふて其旗風は遠く西洋諸国にまでも」と引用し、強烈であからさまな植民地主義、侵略主義の扇動を指摘しています。
確かに私達が学校やテレビで習ったり聞かされた福沢諭吉の言葉 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という平等思想とはなんという違いでしょうか。そしてそのような福沢諭吉が1万円札に印刷され、彼の上記思想が日本の学校やメディアでほとんど教えられない、取り上げられないという日本の戦後と現在は一体どうなっているのでしょうか。何故戦後のいわゆる左派歴史家からもこのような指摘がなされなかったか、声が届かなかったのでしょうか?
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