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9.24.2021

人類の当面する基本問題(6) グローバル化(貿易の完全自由化)の是非 (日刊ベリタ2010.12.08)

グローバル化そのものは、15世紀(以前からもあったではあろうが、大規模なものはなく、人類の全体への影響は些少)から始まった西欧からの、海上交通を通じての交易(といっても初期には、西欧による他国からの資源(金銀)の収奪)から進行していたと考えてよいであろう。グローバル化はそうした他国人同士の接触がもたらしたもので、広い意味では、人類が、国境の枠を越えて、他国の民や文化に接し、意識し、影響し合う動きとしてよいであろう。そしてこのようなグローバル化は人類の向上のためには望ましい。

しかし、狭い意味では、第2次世界大戦後の全世界的貿易自由化の動きであり、現在では、WTO(世界貿易機構)が代表的推進機構である。関税その他の障害を取り除いた自由貿易により世界の経済活動を活性化し、人類全体の福祉を増大するというのが主張である。世界のあちこちで、地域レベルの自由化は行われている。ヨーロッパ経済連合や北アメリカ経済連合などがある。2010年のAPEC会議(横浜)では、アジア地域での貿易の自由化、環太平洋域の自由貿易協定(TPP)が話題になった。多国籍大企業や、政府からのバックアップのある大農業生産国などは、関税障壁などがなくなれば、自由に商圏を拡大することができる。

世界の全ての国が競争可能な程度の経済状態にあり、資源も同程度に保有しているならば、自由貿易で、互いに益するところはあるであろう。しかし、現状は、そのような状態からは程遠い。競争力が伯仲している国々もあるが、大部分の国は,競争力が弱く、自由貿易では,競争力の強い相手に負けて,負けた国の国民が困窮するのは目に見えている。例えば、農業などの競争力のない、しかしその国にとって不可欠な産業がつぶされることは必定である。このような事態はすでにかなりの程度起っている。すなわちグローバル化は、経済大国や多国籍大企業の経済支配をさらに押し進め、国家間の経済格差を増大させるのみであろう。

また、グローバル化の結果、例えば農作物が単一化されがちである。それは、特定の支配的大企業が、種子供給を独占し、地域の生態系などを無視して、単一種に絞りがちであるから。それが、企業にとっては、利益という点では有利なので。作物の単一化は、その生態系を不安定にする。自然その他の原因(天敵発生など)で、その作物が消滅の危機に晒されると、作付けされたその植物が全滅する。すなわち、人類が必要とするその植物が一気に消滅し、人類は食料危機に陥る。

さらに長期的視野に立ってみると、グローバル化にはもう一つ重大な問題がある。大量の物資の長距離輸送を必要とすることである。例えば、カナダバンクーバ−のスーパーマーケットにオーストラリア産のマンゴーが並んでいる。このような例には多くの問題がある。まず長距離輸送の運賃、現在は輸送手段のエネルギー源が不当に安く設定されているので、経済的に可能だが、いつまで続くか。長距離運送に伴う環境への負荷、また人の口に入るまでに長時間かかるので、保存の仕方(それが引き起こす汚染問題など)などなどの問題がある。

大量に必要とされるが、自国で生産(農業)できるものは、できるだけ自給自足にする必要がある。気候、土壌その他の条件で生産できないが、不可欠なものは、必要最小限を輸入に頼る。こうすることによって、長距離輸送に付随する多くの問題は避けることができる。いずれは、輸送に必要な安価なエネルギー源が枯渇すれば、長距離輸送は経済的でなくなる。すなわち自由貿易は経済的にできなくなる。

しかし、このような状態(反グローバル化)こそが、おそらく持続可能なのであろう。それは様々な理由を総合した結果なのである。まず、農業で生産するものは、地域に依存し、その環境に適応したものになる。地球全体でみると、多様化していることになる。地球全体の生態系にとって、多様化は安定の必須条件である。生態系が安定でなければ、人類文明は持続できない。

現在のグローバル化状況下では、大企業が先進国相手の嗜好品(コーヒーなど)などを途上国で大規模に作らせて、経営者の懐を肥やすが、その途上国での必須な品(食料)の生産を阻害することになる。その地の農民は、こうした嗜好品の輸出から得る僅か(先進国企業が搾取;最近は公正取引などで改善されている場合もあるが)な現金で食料を買わざるをえない。そして、自分達のコントロール外にある世界市場に自分達の生活が左右されることになる。農業を、本来の自分達の必要を満たす方向にもって行く方が良策なのである。

日本のような先進国でも、食料確保のためには、農業をさらに振興させ、自給自足になるべく近づける必要がある。それは、地球温暖化に伴い世界の大農業国の食料生産が不安定になりつつあり、そのような食料輸入に依存していると、場合によっては、日本は飢えざるを得なくなる可能性がある。

グローバル化は、一方、金融による経済支配を進行させる。それは、貿易による取引は、特定貨幣(例えば、米ドル)によることによって簡素化され,促進される。そして、その貨幣を扱う企業が、グローバル市場を支配する。経済の金融支配は、現在様々な経済・政治・社会上の問題を引き起こしていることは周知のことであろう。

以上、簡単ではあるが、グローバル化の問題点をいくつか指摘した。食料その他の必需品の自給自足化に基づく経済体制(反グローバル化)こそが、持続可能であろうし、社会正義にも貢献するであろう。食料などの自給自足とは別に、多くの工業生産品が作られているが、それらの、必要に応じての輸出入を否定するものではないし、先にも述べたが、自国で生産不可能だが必須なものの輸入まで否定するわけはない。このような考え方は、「保護貿易主義」として、犯罪のように扱われるのが現在の雰囲気だが、そのような近視眼的考えを捨てて、もっと人類の将来のことを考慮に入れた議論をするべきだろう。


9.23.2021

人類の当面する基本問題(5) 資源獲得競争 (日刊ベリタ2010.12.01)

現実問題として人類の直面する明白な問題の一つは、資源の枯渇に伴う、その獲得競争であろう。石油をめぐっては、すでに様々な国際紛争を引き起こしている。大量に必要とするが資源としては存在量の比較的少ない「銅」などの金属類、それにいわゆるハイテクに必要な希土類金属(レアーアース)、そしてこれからの電気自動車その他のための電池の材料であるリチュームなど、様々な資源は存在場所が限られていて、量的にも少なく、それらの資源を確保すべく多くの国が凌ぎを削っている。もっと基本的な「水」の確保に基づく角逐も懸念される。

根本に、人々の「モノ、製品」への飽くなき欲望があり、というよりは、欲望をかき立てる(成長)市場経済体制があり、それを充足させて儲けようとする欲望がある。この点中国の場合は、個人的な欲望というよりは、中国国民全体の物質的生活向上への渇望が、中国政府をして執拗な資源確保へ走らせている(中国の問題は「人類の当面する基本問題」シリーズで別に論じる)。中国では現在このような段階(大衆消費)に達しているが、インド,ブラジル、東南アジア各国もすぐ後に続くであろう。しかし、これらの国は政治体制が中国とは異なり、国民の政府への要求の程度は中国ほどではない。

いずれにしても、人類が「モノ」を欲しがるかぎり、資源獲得競争は続く。資源は有限でしかない。月とか火星に資源を求めるという動きもあるが、技術的には可能になるかもしれないが、経済的には無理であろう。その有限な資源も地球上に平等に分布していればまだしも、その分布は非常に偏在している。そして現在のところ、地球上の人類は国という地域社会にわかれていて、その地域にある資源はその地域が所有することになっている。そして境界は往々にして国家間の力関係で決められている。しかも個人であろうと国であろうと、現在は「所有」ということは神聖で、所有者以外の人間や国が、勝手に取り上げることは通常はできない。

ここでの基本問題は、(1)国と国との境(特に海上)というものが曖昧であり、境界線周辺にある資源はどちらの国に属するか、(2)資源を欲しい国が、資源を持つ国からどのように資源を獲得するかの二つである。資源が払底してくれば、その値段は高騰するであろうから、資源獲得はますます困難・熾烈になる。いずれは、資源獲得のための武力衝突が起る可能性が高い(特に、中国と欧米間で)。これは、現在のアメリカ(NATO諸国も含む)による(石油資源を目ざしての)アフガニスタン・イラク侵略のような一方的侵攻以上のものである。

さてこの問題の解決策であるが、解決策の第1は根本的解決法で、地球市民が地球上の再生不能資源は人類全体に属するものであり、したがって資源は必要に応じて、公平に各国に分配されるべきということ、そして再生不能資源は十分に倹約して使用されるべきことに関して合意が得られること。こうしたことは、国際的協定の下、国際調停機関を設立して管理にあたる。このような協定は、天然資源ばかりでなく、大分性格は違うが、「土地」「水」についても作られるべきである。このような理想的方法に各国が合意することは、ナショナリズムに凝り固まってしまっている現人類には当分、無理な相談ではあろう。

解決策の第2は、資源は産出国所有のものであるとしても、国家間で資源・サービス・製品などを相互に納得のいく仕方で供給・提供しあう協定を結び、武力行使を伴わずに実行すること。具体的にはどうするか、非常に難しいこともあろうが、なんとか妥協点を見いださねばならない。曖昧な境界線周辺の資源開発も双方の十分な交渉によって、同様な仕方で、合意点を見つけなければならない。

以上、資源獲得が各国間で武力を使わずに行われたとしても、その先に問題がまだある。それは、このような情勢で、資源がかなり急速に消費されてしまうことである。資源の枯渇も、今のような人類文明の消滅を意味する。そこで、第1の解決策の付帯条件「再生不可能資源は十分に倹約して使うべき」(再生可能資源もその可能限界内で)ということに関して全世界の合意がえられることが必須である。

現在の大方の問題意識は、下降した経済をどう立て直し、経済を成長させるかにあるようである。目先だけに注目していたら、そのような考えしか浮かばないのであろうが、長期の人類文明に想いをいたせば、経済(物質的、金銭的)をいつまでも拡大することが不可能なことは自ずと明らかになるであろう。そして、政治家も、経済学者も企業家も、この不可能性を原点にして、経済を立て直す方策を立てねばならないのだが。どのような経済体制がありうるかに関しての簡単な考察は、拙著「アメリカ文明の終焉から持続可能な文明へ」(注;無料でダウンロード可)で行った。

 

(注:http://www.e-bookland.net/gateway_a/details.aspx?bookid=EBLS10071200&c=238)

9.22.2021

人類の当面する基本問題(4) 人はなぜ権威というものに追随するのか(日刊ベリタ2010.11.25)

現在の世の中(に限らない)での様々な場面で、人々が無思慮に、場合によっては良心に反してまで「権威」(政治権力者、教師その他)というものに追随することによって問題が発生する。イラクのアブグレイブ刑務所で、アメリカの下級兵士が上官の命令で、嬉々としてイラク囚人を虐待した事件がその典型例である。 
     1960−70年代にミルグラム博士が行った実験(注1)は人々にショックを与えた。これは記憶と学習をテストする模擬実験で、実験リーダー(権威)は被試験者に「君たちは教師であり、別室に居る生徒にクイズを出し、間違った答えがあれば、学習を助けるために電気ショックを与えよ」と伝える。ショックは最初15ボルトだが、間違った回答がある度に少しずつボルトを増して行く。最終的には450ボルト(危険と表示される)まで上げて行くことができる。生徒はショックを受ける度にうなり声を発したり、悲鳴を上げたり、勘弁してくれとかの声をあげる(勿論演技であり、被試験者には声しか聞こえない)。参加者(イエールの学生、普通市民)の3分の2の人々は、この状況下で、途中でショックを与えるのを拒否せず、最高ボルトまで上げるのに躊躇しなかった。アメリカ以外の人々についても、女性についても男性と同程度の結果が得られたと報告された。ここでは、被験者は、実験リーダーはショックの効果を十分に検討しつくしているのだろうから、言われるままにすればよいのだと、思い込むのであろう。苦痛の悲鳴に反応するはずの良心が抑制され、それに疑義を差し挟むことはあまり意識に登らない。 
     アメリカでの911事件—いわゆる同時多発テロ。多くのアメリカ市民は、自分達の政府(権威者)の発表した事件の内容/原因の報告を信じ込んでしまっている。かなり明白な疑問点が多々提出されているのにも拘らず、権威がすでに発表したことを信じるが故の市民達の無関心をいいことに、公式発表以上の解明の努力は権威の側では行っていない。疑問を差し挟む側は少数派で、一般には無視される傾向にある。 
     もっと長い間の人類の歴史を見れば、神、とくに一神教の神という権威があり、その権威が書いたと称される聖典の言葉が、人々の考えや行動を律してきた。これは、時々に変化する政府などの権威よりも、もっと堅固である。この場合には、信じる人の行動は、良心に反するというようなことはない。自分の信じていることこそが正しいと信じているのだから。宗教に影響された長い歴史の中でも、ある人々は疑問を抱き、自分の宗教を批判的に見ようとしてきたし、現在そのような人が増えているが、一方聖典や神の権威を信じ込んでいる人もまだかなりおり、そのような聖典に沿った行き方を、他の多くの人々(政治や経済、司法面にまで)に植え付けようと努力する人々もいる。このような傾向は現在、アメリカ政治の場で顕著である。いわゆる原理主義的・キリスト教右派が、聖典に反すると信じる「進化論」「妊娠中絶」とか「同性愛」などなどを材料にして政治に関与している。 
     いわゆる「公」なるものの権威は、もちろん十分に正当な根拠がある場合が多いはずだが、近年は、そういう仮定が成り立たない例が多くなってきたように見受けられる。それは「公器」と看做されてきた「新聞・ラジオ・テレビ」などの主要メデイアが、特定集団(政府、企業など)・個人の利益を代表するようになり、「公器」としての正確な報道をないがしろにしがちになってきていることによる。ところが、多くの市民はまだ「公器」というものの権威を信じている。そこで、特定個人や集団はいわゆる(経済)エリートの影響の下、デマ・ウソ情報をラジオ・テレビその他の「公器」を通じて流す。とんでもないデマなのにも拘らず、多くの(権威を信じ易い)市民が信じこんでしまうという現象が今アメリカで蔓延している。 
     今回の中間選挙で使われた(とんでも)デマをいくつかを下に掲げる。このようなデマを大量のカネを使って流し、それにだまされた市民の多くが、一度は放棄した共和党をまたまた復活させてしまった。これからのアメリカの政治・社会は悪化の一途を辿るであろう。(といっても、民主党が共和党より一段とまともかと言えば、残念ながらあまり差はない)デマの多くは、オバマ氏を嫌悪する下心に迎合したもので、しかもそれにより自分達が御し易い共和党を持ち上げる効果がある。すなわち、オバマは「イスラム教徒」、「社会主義者」、「アメリカ生まれの証拠は不明」、「税を上げた、また上げようとしている」(実際は引き下げたにもかかわらず)、「(彼の作り上げた)医療保険制度では人々の「死」も政府の管理下に置かれる」などなど。また、もっと一般的なデマ(というより言っている本人の無思慮による)には、例えば,「2酸化炭素は、生物も排出する自然物なのだから、問題はない」とか「企業を規制するのはいかなる場合でも、社会主義政策だ」など。そして各州の国会議員選挙では、対立する民主党候補に関して、あること無いことデマを流した。たとえ反論が発せられようと、最初にそして執拗に流されるデマは人々の心に定着してしまう 。こうしたことが今回の選挙では、カネの力をかりて広範に執拗に行われた。大方のアメリカ市民の「騙されやすさ」を利用した、鈍民化である。このような状態では、民主主義は形骸化してしまう。 
     人類のうちの多くが、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、その他の宗教を子供のころから植え付けられていて、そうした権威に追従することをよしとする教育を受けて来たことが関係しているであろうか。しかも、現在の複雑で,錯綜し、混沌とした世の中で、十分な情報を収拾し、深く考えて真相を見極めようとするような努力は、面倒くさいので、宗教教典などの権威に従うほうが単純で手っ取り早い。多くの人は表面的にものごとを見、深く考える努力を惜しむ傾向が強いようである。 
     このような多くの人の性向を利用し、一部のエリート達は、自分達に都合のよいように市民を操り、形骸化してしまった民主主義制度を活用して、エリート支配の世界を構築しつつあるようである。アメリカに限らない。1930年代からのナチ政権ではデマを活用してドイツ国民をあのような非人間的な方向に誘導した。日本・中国でも、歴史を通じて、権威者達は、これと同様な仕方で支配しようとしてきたことも事実である。それは「民は由らしむべし、知らしむべからず」なる「論語」からの引用が、ことわざの如くに常用されてきたことが物語っている。 
     これからの人類は、これまでの常識や支配する側の言い分など、十分に懐疑的に、検討しなおす必要がある。このままでは、人類の生存は覚束ない。 (注1:http://ja.wikipedia.org/wiki/ミルグラム実験)

9.21.2021

人類の当面する基本問題(3) 人口問題と生物多様性の減少—人間中心主義 (日刊ベリタ2010.11.18)

 2010年10月名古屋で「生物多様性」会議が催された。現存の生物の多くが絶滅の危機に瀕していることが報告されたが、会議の主要話題は「生物」をいかに利用するか、その国家間での取り扱いといったことで、「生物多様性」の必要性、その維持、なぜ多くの生物が急速に死滅しつつあるのかといった本質問題はあまり関心をひかなかったようである。ただ単に「現在の消滅速度」を落としましょうというかけ声をあげただけ、しかし、それさえも、そのようなことに必要なカネを誰が出すのかで議論は紛糾し、政治問題レベルで終始したようである。 
     このような会議で明らかなのは、人間という種が、自分達は自然を支配している、人間こそが地球の中心であるという「人間中心主義」という奢りに気がついていないことである。ホモサピエンスは、地球上にほんの最近現れた生物の一種にすぎない。その生存は、地球、太陽、地球上の他生物(動植物、細菌その他の微生物)に依存している。おそらく、人類の知識や技術(近い将来のそれも含めて)で解決できない、または左右できない自然現象も多々ある。例えば、プレートテクトニクスの動きは制御できず、したがって地震や火山爆発を制御することはできないであろう。予知する技術は進歩するであろうが。天候も人類の都合のよいようにコントロールすることは不可能に近い(Geoengineeringなる考え方が最近議論され,一部は実施されているらしい。それは現在の地球温暖化を人間の技術で制御しようという試みであるが、その詳細、検討は別の機会に)。 
     しかし、これまでの人類の知識、技術の進歩により、自然の制約からある程度自由になることはできた。例えば、自然に存在する動植物の採集・狩猟に依存する生活から、農業・畜産業の発明により自らの食料を自分達で生産できるようになった。そのために自然の制約から放たれて(といってもそれぞれ、立地条件や天候などの自然制約からは免れない)、人類の数を増やすことができるようになった。こういう現象は他の生き物には見られない。これは、人類が自然から賜った脳と身体的特徴(2足歩行とそれに伴う手の動きの自由さ)による。そして近年の科学技術の進展により、自然にはない多数の、大量のモノを作り出し、医療技術の進歩と相まって、人類の生存基盤を高め、近年の人口の急上昇に繋がった。(人口問題の他の側面の議論は別の機会にゆずる。)そして「人間中心主義」はさらに冗長した。       都市化が進んで、多くの人間が、自分の生きている回りを見ると、人間が作りだしたものに囲まれている(鉄筋コンクリートの建物、道路を走り回る自動車などなど)、自然はどこにあるのかと思われる。田舎に行けば、豊かな自然が見えることがあるが、良くみると、多くの場合、それは人間の耕している畑や水田であり、森の木々も人間の植えたものである。人類が、ほんとうに生態系の中の生物の一種で、数百万の他生物や自然環境に依存して生きているという実感を味わうことは難しい。 
     このような推移を人類の側は人類の進歩と称するが、その裏側はどうなっているか。先ず人類がどの程度の物質を消費しているかを見てみる必要がある。現在人類が年に使用する全炭素量(植物起源)は約1.2 x 1013 kg/年(食料、建築材、衣料、間接的には動物・魚類などの餌など)と見積もられている。地球上の全植物(人間の栽培するものと自然のもの)生産量(炭素換算)で、およそ4.8 x 1013 kg/年と推定されている。この二つの数値を比較すれば、数百万種いる地球生物のたった1種である人類が、全炭素生産量の約4分の1を消費していることになる。現人類の人口は約67億人で、その総体を重量にするとおよそ、2 x 1011 kg。一方、地球上の全動物種の全重量は、約2 x 1014 kgぐらいと推定されるから、人類は体重割りにすると,全動物の約0.1%(この数値はかなり不確実)。この人類が、全植物生産量の25%を使用している。いかに不相応に消費しているかがわかるであろう。75%が人類以外の数百万種の動物達(その他植物依存生物)に残された分である。これだけの量で、現存の全地球動物に十分に食料を供給できているのかはわからない。もちろん,人間が使用したものをさらに食料として使用できる動物(と微生物)もいる。この間の事情を十分に正確に把握することはできないが、人類が不相応に消費し、他生物への分け前が非常に少なくなっていることは事実であろう。他の動物は、食料不足で死滅するか、毎年再生産される以上の植物を消費している(もちろん、人間もそれに加担している)のであろう。 
     一方、人類の「進歩」「人口増加」に伴い、自然環境は崩され、汚染され、他動植物の生態系は破壊される。これと上述の人類の植物の過剰消費が生物の消滅速度を速めている。この消滅速度は、過去に記録されている何回かの生物絶滅期の消滅速度の少なくとも数百倍はある。 
     このような問題は、かなり多くの人が認識しだしたようである。しかし、これ(生物多様性の減少)を止めることは現状では難しい。トキの絶滅を必死に避けようとしているし、目立った生物の絶滅を何とか止めようとする努力はしているし、そうした努力はさらに拡大しなければならないであろう。 
     しかしながら、上に述べたような人類の「進歩」とそれに伴う「人間中心主義」の精神でこの問題を解決することは不可能であろう。おそらく、人類が最大限の努力をしたとしても、生物絶滅は起こり続け、自然の消滅速度まで落ちることは、ないであろう。しかし努力をすることは必要である。どの程度まで生物種が減ったら、地球の生態系が崩壊してしまい、人類の生存基盤もなくなってしまうか今のところ誰も推測できない。人類のできることは、あらゆる手段で、生物絶滅を減らすことのみである。そのためには、人類の生き方を根本的に改める必要がある。地球・自然は人間の為に存在するという「奢り」(人間中心主義)から、人間も生物の一種で、地球生態系と調和して生きなければならないという「控えめな」態度へと。(環境と調和して生きるという生き方は、日本人の古来の精神にはあった。) 
     そして、そのためには、自然環境を壊さないばかりでなく、自然物(再生可・不可にかかわらず)の消費を控えめに、そして自分達の数(人口)を生態系にマッチしたレベルに維持するという知恵も学ばねばならない。

9.20.2021

人類の当面する基本問題(1)法人の人格という問題 (日刊ベリタ2010.11.06)

「人」は生物の一種、ホモサピエンスの一員である。これは自然人と定義される。それに対して法律上自然人のいくつかの特性を付与された組織(人によって作られた)を「法人」という。法人には、営利目的を持つものー企業・会社などと、非営利目的の組織-財団法人、宗教法人などがある。 
     自然人に関しては、国によって異なるが、通常基本的な権利(人権:ヒューマンライツ)が認められている。認められていない場合もあり、それが政治体制への批判の根拠になっている(最近の中国人ノーベル平和賞受賞問題が端的な例)。これも大いに問題であるが、ここでは議論の目的ではない。 
     いわゆる「法人」にどのような権利が認められているか、それが現在の人類文明でどのような影響を人類に及ぼしているか、どうすれば良いかなどを考えてみたい。特に問題は企業・会社などの営利組織(法人)の「人権」である。 自然人に関しては、国によって異なるが、通常基本的な権利(人権:ヒューマンライツ)が認められている。認められていない場合もあり、それが政治体制への批判の根拠になっている(最近の中国人ノーベル平和賞受賞問題が端的な例)。これも大いに問題であるが、ここでは議論の目的ではない。 
     いわゆる「法人」にどのような権利が認められているか、それが現在の人類文明でどのような影響を人類に及ぼしているか、どうすれば良いかなどを考えてみたい。特に問題は企業・会社などの営利組織(法人)の「人権」である。 法人が、生身の自然人とは基本的に異なるものであることは明瞭である。永遠の生命を持ちえない自然人がそうした組織を構成してはいるが、組織そのものは永続性を持ちうる。むしろ営利法人の主要目的は永続性・発展性(利益増大)である。また法人は、生身の人間のもつ感情を持ち得ない。したがって法人全体としては感情に左右されない(法人の中にいる自然人が感情に左右されることはあっても、組織全体は感情とは別の行動原理にしたがって行動する)。すなわち、正常人の道徳観のようなものは、企業の行動原理にはない。  
     とは言っても、法人を動かすのは自然人である。特定の法人の行動を左右することのできる地位にある自然人(経営者と資本家)の影響力が大きい。彼らは法人の行動を下支えする生身の人間(労働者、下級社員など)の感情や生活条件などは、自分達(その所属する法人)の目的に不利ならば軽視する場合が多い。そしてその目的(利益)のためには、「法人」としての人権を最大限利用しようとする。このような法規上の権利は、通常、自然人の持つ権利よりはかなり制限されたものであるが、法人が社会的に勢力を獲得して来ると,権利の拡張を画策する(アメリカでのこの間の事情は落合:日刊ベリタ2007.12.13に略述した)。  
     さて、「法人」という言葉は、日本の造語であろう。おそらく欧米からの「企業は(自然)人の性格・権利をもつ」という概念に基づいているものと思われる。この概念の根拠とされるのが、1886年のアメリカ・カリフォルニア最高裁での「サンタクララ郡対南大平洋鉄道(会社)」裁判の判決に基づいているとされる。裁判長は、この判決文の中で,アメリカ国憲法の改定14項(全ての個人は法の下、平等の権利を有する)が、企業にも適用されると述べたことになっている。すなわち企業も「人」として扱われるべきとした。この後、全ての法科の教科書にはこの判決文が引用されて、企業が人権を有するということの根拠とされてきた。ところが、近年研究者が元の判決文を調べたところ、企業の人権云々はどこにも触れられていなかったのである(判決はそのような根拠を必要としていなかった)。判決文の始めに、裁判所の書記が記した前文に、裁判長の談話(非公式)として引用されていたのである。このような書記による前文は法的拘束力をもたない。実際数年後には、この裁判で異議を唱えた判事の一人は、あの裁判で「企業の人格性を確立しなかった」ことを悔いる発言をしている。このような間違った根拠に基づいて、「企業の人権」が堂々とまかり通ってきたということは、素人としては信じがたいが、どうも事実のようである。  
     その後、企業は、様々な機会に人間と同じ権利を企業が持たないことに対して裁判に訴え、また、個人と同様に、自社を罪に陥れるようなことをしない権利も主張した。そしてついに、2010年1月アメリカの最高裁は、企業に自然人と殆ど同じ権利を付与する判決を出した(落合:日刊ベリタ2010.02.06)。これによれば、政治にも個人と同様あらゆる関与の仕方が許されるようになった。例えば,彼らの献金は、第3者を通じて行われ、直接の責任者は同定できないようにすることも可能である。これにより、カネによる、企業の政治支配が完成したことになる。11月2日の米中間選挙は、こういうカネが大ピラに支配する最初の選挙になった。日本でも、現民主党政権は、企業献金の制限を緩和しようとしている。アメリカ追従も極まったというべきであろう。  
     オバマ氏という非白人への憎悪が底にあるが、それをオバマ政権の社会主義性などなどのデマにすりかえ、それに踊らされた、かなり目立った保守的運動なども含めて、今回の中間選挙はカネの影響が甚大であったようである。オバマ政権が市民の期待に答えられなかったことと、普通のアメリカ市民がこうしたデマに簡単に振り回されるというふがいなさが根本だが。アメリカの政治は、ますます多数市民よりは少数エリートのためのものになる。「偽の人間:法人」が「本物の人間」を支配する。いや正確には、法人を動かしている少数の人間が大多数の人間を支配する。  
     このような状況で,企業の支配を拒否しようとする動きはないのだろうか。T. Hartman(注)によれば、アメリカの100以上の地方自治体で、そういう運動が起こされているのだそうだが、まだどこも法律として確立するには至っていない。それは、自治体がそういう法規を作ったとすると、影響をうける企業が「結構、法廷で争いましょう」とくる。そのような訴訟にかかる費用を考えると、自治体では争えず、法規を引っ込めざるをえないのが現状だそうである。 
     さまざまな場面で、 人格を獲得した企業(法人)が、カネを駆使して政治・経済・社会に甚大な影響を及ぼしているのが現在の人類の状況である。特に、富を少数が収奪(そうなるような政治経済機構を作る)し、大多数の人間を貧困に陥らせている。最近のデータによると,昨年、アメリカのトップ74人の年収は、最下位1900万人の年収に匹敵する(トップ階層の一人は下位の26万人分の収入を手にしている)。 
     WTO組織では、企業の利益が最優先されて、それを損なうものは、抑圧される。例えば,GM作物が、近隣の農場に自然状況下(風などによる)で移植し、それに気がつかずに栽培を続けていた農家が、GM作物供給の企業から訴えられ、WTO下で農家が敗訴し、賠償を払わせられた。 
     例を挙げればきりがない。現在の人類文明の遭遇している問題の根本には、この法人という概念とそれに基づくカネを用いた少数による多数の支配構造がある。法人という法に基づく組織が、大多数の人間に不幸をもたらしている。このような構造は、理論的には「法」を改正して、企業の人格を制限することによって規制することができる筈である。それには立法府そして行政府(司法も)が、カネ(企業)の支配から脱しなければならないが、最近の例でいえば、アメリカの金融企業の野放図な金儲けの試みの結果の金融・経済危機を回避するための規制法規は、形だけで、実質的・有効なものをアメリカ議会は編み出せていない。どうしたらよいのであろうか。 
 (注 http://www.alternet.org/books/148608/the_supreme_court_sold_out_our_democracy_--_how_to_fight_the_corporate_takeover_of_our_elections)

9.01.2021

李里花さんの講演「朝鮮籍とは何か トランスナショナルの視点から」に寄せられたTさんの感想

 8月28日にカナダ9条の会主催・ピース・フィロソフィー・センター協力で開催されたオンライン講演


李里花さんを迎えて「朝鮮籍とは何か トランスナショナルの視点から」


 

 に参加してくれたTさんが丁寧な感想を寄せてくれました。Tさんは、このイベントで司会をつとめたピース・フィロソフィー・センター代表の乗松聡子の大学時代の後輩で、現在は大学教員です。Tさんの許可をもらい、ここに共有します。

以下、Tさんの感想:

私は、極めて「右より」の思想の家庭に育ちました。そして、幸か不幸か、自分の生活に朝鮮半島を近づける必要もない、目をつぶっていても差し支えない環境に(たまたま)身を置いてきました。けれど、やはりそれではいけない、何か知りたいと思う気持ちが強くあって、この度こちらの講演会が聴けそうだったので、純粋な好奇心から参加をしました。

参加なさっている方々の多彩な顔ぶれ、カナダ9条の会の熱心な方々、そして李里花先生を含めた、国と国とのいわゆる「間(あいだ)」におかれてしまっている、韓国籍や朝鮮籍の複雑な状況を生き抜かざるを得ない皆様の、和やかで、しかし怒りを秘めた、そして強い姿に感動を覚えました。こうした人々を一つにまとめている乗松様や周囲の方々の活動はすごいなと、初めて目の当たりにして感じました。

なぜこの話題に興味があったのか、という個人的な話を少し紹介させてください。私の父は1927年に今のソウルである京城で生まれました。そもそも祖父が電機関係の会社で、外地に出向していたからです。父は自分が韓国生まれであるということを、自分から子どもたちに向かって話すことは一度もありませんでした。その事実がすごく嫌だったようなのは、そぶりで分かりました。けれど、私が聞きたがると、朝鮮の子どもたちを揶揄するザレ歌のようなものを歌ってくれることがたまにありました。祖母は、京城で韓国のお手伝いさんが来てくれていた話をしてくれ、韓国語の「もしもし」は「ヨボセヨ」だというのがお気に入りの話題でしたが、生活の話は一切しませんでした。結局、父は体が弱くて、8歳か9歳ぐらいで、祖母に連れられて日本に戻ってきたとのこと。祖父はその後もずっと京城暮らしでしたが、終戦近くなって朝鮮半島からフィリピンに出征し、帰らぬ人となりました。

私自身記憶はないし、謎が多いけれど、朝鮮半島というのは、本当は自分のルーツにとって大事な場所なんじゃないか、そう私が心に刻むようになったのは、幼少時に聞きかじったそんな記憶に結びついているからだと思います。多分、言葉にしてもらえなかった不自然な空白部分を、なんとか補いたいと言う気持ちがあるのでしょう。

高校時代には、韓国名を名乗っている、実家が焼き肉屋さんの同級生がいました。それが初めての「韓国人の友達」だと思っていましたが、大学に入って初めて、「日本名」で生活している朝鮮半島の文化を持っている方が多くいることを知り、驚きました。要するに、まったく無知蒙昧だったわけですが、本当に最近になって、自分にとても身近なところにも、マイノリティとしてのアイデンティティを秘めつつ、しかもそれを決して声にすることのない人たちがいることを、やっと現実の問題として実感するようになりました。

本講演会のお話を聞きながら、そういう身近な人たちの顔が目に浮かび、今まで知らなかった世界が広がっていくのを感じました。私自身は別に韓流ファンでもないし韓国語ができるわけでもありません。だから李里花先生や皆様の具体的なお話を、本当の意味で「実感」したわけではないのです。けれど、自分の生活の身近な場所にいる、例えば上司や部下や同僚といった人々も、ひょっとすると朝鮮半島とつながりを持ち、私の想像を絶するような世界に住んでいるのかもしれない、また彼らは現在困った立場にある人々を人知れず助ける立場に立っている人なのかもしれない—そんな想像が広がりました。そしてその想像は、なぜか自分をほっとさせてくれるのです。それは自己満足に過ぎないし、ましてや自分の祖先が送っていた帝国主義的な生活を正当化するものではないとは知っていますが。今の私は、あえて自分の立場・出自というものを否定せずに、向き合える時に向き合える人々や事柄に向き合いたい、そんな気持ちでいます。知らず知らずに染まってきたイデオロギーだとか支配被支配の力学だとか、そういう古い因習を「自然に」脱ぎ捨てたい、という思いがあるのかもしれません。

乗松様のピース・フィロソフィーのお仕事への尊敬の念が、ますます高まったことを申し添えて、講演会へ参加させていただいた、私からつたない感想とさせていただきます。本当に有意義でした。関係の皆様にもよろしくお伝えください。どうもありがとうございました。

(以上)

Tさんは朝鮮半島について「目をつぶっていても差し支えない環境」に身を置いてきたと思いつつも、何かそれではいけないという気持ちになってこの講座に参加しました。それは、Tさんによると、お父さんが植民地支配下の朝鮮(京城)生まれであったことと、家族から聞きたかったけれど聞けなかった朝鮮の生活における「不自然な空白部分」を聞きたいという気持ちが残っていたということでした。お父さんが歌った、朝鮮の子どもたちを揶揄するような歌、祖母が朝鮮のお手伝いさんについて記憶している言葉など、限定的とはいえ、Tさんの記憶には、Tさんの言葉で言う「帝国主義的生活」の断片があったように見えます。高校のときの韓国名の同級生、大学で、通名を使っている人がいることへの気付き・・・自分の身の回りに、自分のアイデンティティを隠して生きている人たちがいることへの気づき。

ひとつひとつ、私は自分に重ね合わせて読んでいました。私も日本で生まれ育った若い頃、身の回りに、ルーツは日本ではないのかもしれない名前の友人たちはいて、しかし特にその友人たちのバックグラウンドについてもっと知りたいとまでは思いませんでした。朝鮮大学校から近いところに住んでおり、電車に韓服の学生さんを見かけることがあったけれどもそれも風景の一部のような存在でした。私の父も中国の日本租界(植民地)で生まれ、「戦犯企業」に勤めた人間で、両親から受け取った、在日朝鮮人の人々のイメージの中には克服しなければいけないものがありました。想い出すのも、認めるのも難しい。無知で無関心だった自分は、カナダに定住するようになってはじめて在日(カナダに定住した人は「元」在日と言ったほうがいいのかもしれませんが)の友人が自然に一人、二人、とできました。そして、今回の講座で学んだことのように、知らなかったことを一つ一つ学びながら、無知だった自分に愕然としながら歩んできたような気がします。日本からこんなに近い朝鮮半島も、カナダに移住した後に広大な太平洋を超えて訪ねることになりました。

Tさん、これからも共に学ぶ機会があることを願っています。聡子


8.09.2021

カナダ9条の会 第二回オンライン講演会 『朝鮮籍とはなにか トランスナショナルな視点から』著者 李里花さんを迎えて Article 9 Canada Presents: What is the Chōsen-Seki? Dialogue through Transnational Perspectives, with Dr. Rika Lee

8月28日追記:約100人の参加を得て、質問やコメントもたくさん来た有意義な会でした。李里花さんによる「朝鮮籍」の歴史的解説に加え、筆者の一人である丁章さん、広島県福山市から参加してくれた尹李英愛さんからもコメントをもらい、貴重な体験や意見を聞くことができました。YouTubeに動画をアップしました。

9月3日追記:講演に寄せられたTさんの感想を掲載しました。

李里花さんの講演「朝鮮籍とは何か トランスナショナルの視点から」に寄せられたTさんの感想


 


カナダ9条の会オンライン講演会 第二回を開催します!

See below for English description of the event 



『朝鮮籍とは何か トランスナショナルな視点から』の著者、李里花さんを迎えて

日本時間 8月28日(土)午前10時から

(バンクーバーなど太平洋標準時では:8月27日(金)午後6時;トロント・モントリオールなど東部標準時で 8月27日(金)午後9時)

ズームによるオンライン講演で、事前登録が必要です。登録はこちらからお願いします。

https://us02web.zoom.us/webinar/register/WN_824YFTgXQ96XdxazqazsHw

★カナダ9条の会オンライン講演会第2回は、『朝鮮籍とは何か トランスナショナルな視点から』(2021年、明石書店)の著者、李里花(Rika Lee)さんに登場いただきます。この本の李さんの序文はこう始まります。「朝鮮籍は国籍ではない。朝鮮民主主義人民共和国の国籍を意味するかのように使われることがあるが、これはまちがいである。朝鮮籍とは、帝国の時代に日本に『移住した』朝鮮人とその子孫(以下、「在日コリアン」という)を分類するために、戦後の日本で創り出されたカテゴリーである。」在日コリアンの中でも「マイノリティ中のマイノリティ」と言われる「朝鮮籍」の方々の経験と歴史について李さんと共に学びながら、「国」とは、国籍とは、アイデンティとは何かということを自らの体験も振り返りながら共に考えてみませんか。カナダ9条の会のオンラインイベントは、カナダ中のメンバーと、日本や他国にいる人たちが同時に参加し、意見や経験を共有することで、まさしく「トランスナショナルな空間」を作り出すことができると思います。ふるってご参加ください。

★李里花(リ・リカ) 

中央大学准教授。社会学博士。(専門:歴史社会学、移民研究、環太平洋地域研究)東京都立国際高等学校、中央大学総合政策学部卒業後、一橋大学大学院社会学研究科修士課程・博士課程修了。ハワイ大学コリアン研究センター客員研究員、韓国高麗大学アジア問題研究所コリアンディアスポラセンター客員研究員を歴任。現在日本移民学会理事・事務局長。主な研究に、『〈国がない〉ディアスポラの歴史:戦前のハワイにおけるコリア系移民のナショナリズムとアイデンティティ1903-1945』(かんよう出版、2015 年)等がある。自身は朝鮮籍ではなく、在日コリアンの母とコリアン・アメリカンの父の間で日米を往来しながら育った。

ふるってご参加ください!

関連リンク

植民地支配の残滓(アジアへのとびら)

What is the Chōsen-Seki? Dialogue through Transnational Perspectives

 

Co-sponsored by Canada Article 9 & Peace Philosophy Centre

 

August 28, 2021 (Sat) | 10:00 am-11:30 am in Japan Time

August 27, 2021 (Fri) | 6:00 pm-7:30 pm in PST (Vancouver)/ 9:00 pm-10:30 pm in EST (Toronto & Montreal)

 

Online Lecture

 

We are pleased to announce our second online lecture, with guest speaker Dr. Rika Lee (Chuo University, Japan), the author of the new book entitled What is the “Chōsen-Seki”?  Dialogue through Transnational Perspectives [Chōsen-Seki towa nanika—Transnational no shitenkara] (Akashi-Shoten, 2021). In the introduction of the book, Dr. Lee begins with the following statement:

 

Chōsen-seki is not a nationality. The term is often used as if it meant the nationality of Democratic People's Republic of Korea (or North Korea), but it is wrong. Chosen-Seki is a category constructed by postwar Japan in order to classify ethnic Koreans who had ‘immigrated’ to Japan during Japan’s imperial period, and their decedents (hereafter, “Zainichi-Koreans”).

 

In this online lecture, Dr. Lee will give us a talk about the history and experience of ethnic Koreans who are categorized as Chōsen-seki, the very minority even within the Zainichi-Korean community. We invite participants to think about what constitutes a “nation,” “nationality” and “identity” through reflecting their own experience, and exchanging dialogues with Dr. Lee and other participants through transnational perspectives.

 

The lecture will be given in Japanese. However, we will open up Q & A session both in English and Japanese with interpreters.

 

Registration: https://us02web.zoom.us/meeting/register/tZAocu-hrTooGtKxDB0mir3dPK19yfRy3egI


Dr. Rika Lee is an Associate Professor in Sociology at Chuo University, Japan. Her research interests include historical sociology, migration studies and Asia-Pacific studies. She has published articles and books on the history of Korean diaspore, nationalism and national identity. Dr. Lee was born between Zainichi-Korean mother and Korean American father and has grown up in Japan and the U.S.

 

 


2.13.2021

カナダ9条の会オンライン講演会「核と人類は共存できない-核兵器禁止条約発効と、福島原発事故10年の節目に考える-」 落合栄一郎さんを迎えて

3月7日追記:60人以上の参加を得て盛況のうちに終わりました!動画をアップしますのでご覧ください。次回の講演も乞うご期待!


カナダ9条の会 オンライン講演会第一回

核と人類は共存できない

ー核兵器禁止条約発効と、福島原発事故10年の節目に考えるー

落合栄一郎さんを迎えて

落合栄一郎さん
 2021年1月22日、核兵器禁止条約 (Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons(英語条文はここ外務省の日本語仮訳はここ)が発効となりました。核兵器の使用、使用の威嚇、開発、実験、生産、製造、取得、保有および貯蔵を禁止し、その移譲、受領、禁止行動に対する援助、奨励、勧誘も禁止する、全面的な「禁止」条約は長年の世界の被爆者や根強い市民社会の運動の成果と言えます。条約では「核兵器に関する活動が先住民にもたらす均衡を失した影響を認識し」と、核問題と植民地主義の関連にも触れています。
 1月22日の時点で86国が署名、52国が批准していますが、全ての核保有国および米国の同盟国(カナダを含むNATO諸国、日本、韓国など)は参加していません。また、「無差別に平和的目的のための原子力の研究,生産及び利用を発展させることについての締約国の奪い得ない権利に影響を及ぼすものと解してはならない」と、原子力発電を問題視していません。
 きたる3月11日は、東日本大震災・津波および福島第一原発の大事故発生から10周年を記憶する日です。10年経っても収束からは程遠く、環境や生物、人体の被曝被害は継続し、いまだに3万から6万以上といわれる人たちが避難生活を強いられています。
 今回は、米国の大学で教鞭を取りながら長く平和・反核運動にも従事し、退職後もバンクーバー9条の会の会長を務め、化学者として、核兵器であれ原発であれ「核と人類の共存はできない」との主張を英語・日本語の著書や講演・執筆活動で続けてきている落合栄一郎さんを講師に迎えたいと思います。

時間:

    バンクーバー(太平洋標準時):3月6日(土)午後5時ー6時半

    トロント・モントリオール(東部標準時):3月6日(土)午後8時ー9時半

    日本 3月7日(日)午前10時ー11時半

参加費 無料

主催    カナダ9条の会 (Article 9 Canada) 

後援    Peace Philosophy Centre

定員 先着100名

言語    日本語(質問は英語でも受け付けられます)

問い合わせ先:article9canada@gmail.com

要事前登録。このリンクから登録してください:

https://us02web.zoom.us/meeting/register/tZAkd-CqpzwuH9TgE_7TFU-5iaHV07xyfP-0 

講師プロフィール:落合栄一郎(おちあい・えいいちろう)

1936年東京生まれ。ペンシルバニア州のジュニアータカレッジ名誉教授。東京大学工業化学科卒、同大博士課程終了工学博士。カナダ、アメリカ、スウェーデン、ドイツなどの大学で化学の研究教育に携わる。2005年退官後はバンクーバーで、バンクーバー9条の会、世界連邦協会等を通じて平和活動を行いながら英語、日本語で、放射能や被ばくの危険性についての執筆活動に従事する。

著書:Bioinorganic Chemistry, an Introduction (Allyn and Bacon, Boston, 1977)、 Bioinorganic Chemistry, a Survey (Elsevier, Amsterdam,2008)、 Hiroshima to Fukushima (Springer, Heidelberg, 2013)、 Nuclear Issues in the 21st Century , Nova Science Publ, New York, 2020)、『原爆と原発』(鹿砦社、2012)、『放射能と人体』(講談社、2014)、『病む現代文明を超えて持続可能な文明へ』(本の泉社、2013)等多数。

 ★バンクーバー、トロント、モントリオールの9条の会が横につながり、大きな「カナダ9条の会」という枠組みで、日本やその他の国に住むメンバーも含め、日々意見・情報交換をしてきましたが、コロナの影響で活動はオンライン中心となりました。2021年から、不定期となりますが誰にでも参加してもらえるズーム講演会シリーズを企画しようということになり、これが第一回となります。

10.29.2020

放射線って危険、どうしてなの?

放射線は、人の意識にのぼることはないのですが、見えない所で、人々の健康に悪影響ーそれはガンに限らず、心疾患、脳への影響などなどーを及ぼしているのです。見えもしないし、匂いもせず、体に当っても感じられない、そんな放射線が、本当に人々の健康を害し、死に至らせもしているってほんと?どうしてそんなに危険なの?こうした疑問についての二人の女性の会話を、以下にスライドとして掲げます。