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9.30.2021

人類の当面する基本問題(12) 科学・技術への信仰と悪用(日刊ベリタ2011.02.05/2011.02.09)

西洋では長い間、宗教が生活を律してきて(この点は、西洋に限らない)、ルネッサンス頃から発達し始めた科学的ものの考え方は宗教としばしば衝突し、初期には宗教が科学を抑圧していた(ガリレオなどの例)。しかし、西洋の宗教的世界観、すなわち唯一の神が支配する世界であり、したがってその神の規定する規律が世界の根底にあり、それを探求、理解しようとする意識が、西欧的科学を促したともいえる。これは宗教の桎梏を乗り越えると、科学への強力な支えとなった。特に物理的現象の理解は、いわば神の律法(宗教原理主義的ドグマという意味ではない)を解明しようとする努力であり、現在でも最終的/総合的な統一理論(=神か)が主要な目的のようである。そして物理学が西欧的科学の基本形となり、それに付随して化学が発達した。これらの学問の扱う現象は、少数の要素とそれらの間に緊密な関係(数式で表現できる程度に)があるために、法則性などを確立しやすいし、その法則性の確立こそが「科学」と看做される。

生物(単細胞生物から人間を含む多細胞生物まで)、人体生理現象、生態系、地球(気象も含めて)などの自然現象もやがては科学の対象となり、それぞれの学問分野を形成した。しかし、これらの現象は、介入する要素の数も多く、それらの間の関係も、物理・化学現象ほど明瞭・緊密ではないので、十分な解明は困難である。しかし、20世紀後半までには、DNAの解明や、様々な測定機器の発達で、かなりの進歩を見てきた。最近10年ほどは、これらの上に、高速コンピュータ−を用いるシミュレーションの進歩が加わった。そして、西欧的科学の伝統からして、特定要素(例えば、DNA)にフォーカスして全てを説明しようとしたり、シミュレーションへの過度の信頼などの傾向も見られる。すなわち現実的には、存在する様々な要素の多くを十分に取り入れることは難しいので、そのうちの重要と思われる要素を取り上げてそれによって現象を理解しようと試みるわけである。このようなやり方(の不十分さ)を意識して、現象を追求し、それから得られる理論なり結論の限界を十分に弁えているうちは良いのだが、限界を忘れて、自分達の方法が十分に現象を理解できている筈だと考えて、議論をすすめ、さらにそれを展開していくという傾向が往々にして見られる。

これがいわゆる「社会科学」となるとさらに問題は複雑になる。経済学、政治学、社会学それぞれが、(物理)科学の成功にならい、「科学」たらんと欲し、そして、「科学」を標榜しようとする。そのために、例えば、物理にならって、経済現象を少数の要素と、その要素の性格の規定に基づいて理論を構成しようと努力する。例えば、個性の異なる、様々な価値観をもつ様々なしかも多数の人間を単一の性格を持つ要素(「経済的人間」)として経済現象を説明・理解しようとし、しかもそれに基づいて経済政策を策定したりする。こんなことはとんでもない科学的方法の間違った適用である。 おそらく非常に狭い範囲内の特定の社会現象では、ある程度の科学的方法論は適用できるであろうが、大方の社会・経済・政治現象に科学方法論を適用することは困難であり、したがって、これらを(物理)科学と同様な仕方で解明するということは厳密には不可能であり、科学的理論であると自称するものは、疑ってみるべきである。社会科学者にこのことは特にお願いしたい。

それぞれの科学(社会科学も含めて)は、その対象がどのようにして現象しているかを理解しようとする人類の努力であり、それ自身は、人類の進化(進歩)の過程で望ましい現象である。しかし、科学というもの(それから得られる結論や理論)は、必ずしも完全無欠なものではないし、特に複雑な系を扱う医学、気象学や社会科学のそれは、その不完全性を意識して考慮する必要がある。

人類は、このようにして得られた知識を、現実問題に適用して自分達の生き方をより良くしようという意識を持っている。それが、技術(それを追求するのが学問としては工学、医学では治療が技術に相当)であり、社会科学では政策・施策(自然科学に対応して、社会工学という概念・追求もある)である。

日本の近代(江戸期)でもそうであったし、西欧の産業革命でもそうであったが、先行したのは、試行錯誤に基づく技術であった。いわゆる医学もしかり。技術は、初期には、科学知識の応用ではなく、むしろこうして(試行錯誤により)発明された、例えば蒸気機関などが、近代的科学の発達を促したのである。20世紀になると、科学が格段に進歩したおかげで、科学が技術を引っ張って行くのが通常にはなったが。

包含される努力や知識の活用などの点において、技術(電子機器などを作り出す)を生み出す努力(工学)そのものは、科学と本質的にはあまり違わない。しかし、技術は、社会の中(製造工場、核発電など)で活用されるのであり、その社会への影響は技術開発の過程で十分に考慮されるべきものであるにも拘らず、往々にして軽視されがちである。

現在人類に深甚なる影響を与えている技術(工学)として、原子力工学と遺伝子工学を例としてあげる。技術そのもの、すなわちそれが他へ与えるであろう影響を無視するならば、理論的には素晴らしい技術である。原子力発電は、温室効果ガスである2酸化炭素を排出しないし、少量のウランから多大のエネルギーを生産することは事実である。しかしウランそのもの(とそれに付随する様々な核種)の発する放射線はウラン鉱発掘から、使い古した(劣化)ウランまでどこまでも付いて回る。ウランはどのような形であれ、数十億年にわたって放射能を出し続ける。そして今のところ、そして将来的にも、放射能を完全に押さえ込み、人間を始め、あらゆる生命への影響をゼロにすることはむずかしい。ウランは実は、かなりの量がウラン鉱石として地球上に存在することは事実であるが、ウラン鉱として特定の場所に固定されている限りは、その影響を最少に止めることはできる。放射能の悪影響と経済的不利益(原子力発電は全てを考慮すれば経済的ではない)は、利点をカバーできない。しかも放射能の影響(人命やその他の生命に対して)は経済的に評価できるものではない。また技術的にも、その安全性は確保できるとは言いがたい。したがって、原子力発電は、過渡的に使わざるを得ないとしても、なるべく早急に廃止するのが望ましい。これ以上の放射性物質の拡散は是が非でも避けなければならない。そうでなければ、地球全体が放射能で汚染されて、生命が存在できなくなるかもしれない。

遺伝子工学も、初期の動機には正当なものがあったのであろう。それは遺伝子の性質、その化学物質性とその人工による変換を巧みに使って、人類の役に立つものを作ろうとした。また,特定の人間の中の不都合な遺伝子を変換するなり、差し替えたりすることによってその人の健康を改善するなどの効果を狙ったりしている。例えば、豆科の植物は、窒素肥料を自作する。それは、共生する根粒バクテリアに空気中の窒素を固定する(アンモニアに変える)酵素があり、それが窒素肥料を供給するからである。この酵素の遺伝子を他の植物の遺伝子に組み込むことによって、その植物が自分に必要なアンモニアを自分で作れるようになるはず。そうすれば、食料生産への肥料の要求度がかなり軽減されるだろう。というわけで、このような遺伝子を関係のない植物の遺伝子に組み込むことは有意義だろう。というような考え方があり得る。この遺伝子工作そのものははまだ実現してはいないが。これは遺伝子操作(GM)による植物の改良という良い意図(人間にとって好都合で、植物にとってよいかどうかはわからない)から出たものではある。

しかし、現在実用化されているGMによる植物(大豆、トウモロコシ、綿などなど)は、植物の改良といっても、雑草駆除に都合がよいとか、ある種の害虫除けの毒物を生産するというもので、様々な問題を抱えている。先ず広範に使える除草剤(ラウンドアップ)に耐性のある遺伝子を組み込んだ大豆、トウモロコシが現在多くの国で広範に栽培されるようになった。これはアメリカの特定企業が開発し、多くの国に押し付けきた(最近のウィキリークで暴露された)もので、ラウンドアップを撒いておけば、他の植物(雑草)は生えないので、栽培が簡単というわけである。これには、基本的に二つの問題がある。一つは、自然はそう簡単に引っ込んではいないこと。この除草剤に耐性を持つ植物を自然が作りだす。現実には、ラウンドアップに耐性のある雑草が発生し始め、除草剤の使用量が最初の目論みよりも増え、経済性が減少するとともに、雑草の対薬剤性が増して、薬では処理できずに、物理的に引き抜くしかなくなってきているうえに、抜いても抜いてもすぐ生えてくるようなスーパー雑草が出来てきている。二つ目の問題は、ラウンドアップ製剤の毒性が様々な形で環境や人の健康に影響する。ラウンドアップを空中散布するため、働く農民が直接それを吸入する可能性が高く、またこれが、食料に供される製品に混在してしまうことで、それを食べた人の健康に影響する。この種の大豆を広範に栽培している(させられてしまった)アルゼンチンやブラジルの農民や市民に、様々な深刻な健康障害がすでに広範に発生している。生物(植物・動物その他)を人為的に操作し、それを技術的レベルで活用しようとする場合、その社会・環境・生態系への影響を広く考慮する必要がある。生態系への影響には、人為的に植え付けられた遺伝子が、その植物から他の正常の生物へ様々な経路を通して(自然に)移行することによって他生物がいわば汚染されてしまうことも含む。と同時に、自然は、そうした人為的操作に対抗する手段をかなり包含していることも考慮に入れておく必要がある。

以上二つの例では、こうした技術を活用して利潤をあげることに主眼点がある。原発建設は、結果的には操業上様々な問題を持ち、不経済ではあるにしても、建設によって十分に利益を上げる企業がある。企業(法人)は、技術の利用がもたらす悪影響(人命をも奪いかねない)を過小評価し、利潤を優先しているし、そのようなことが出来るように社会・政治・経済を牛耳っている。このような技術の利用は人類にとって有益ではない。

なおもう一つ付け加えると、「原発」は、武器として開発された「原子核爆弾」の技術の延長である。多くの技術は最初戦争への使用目的のために開発されたものが、民間用にも使用可能性が見つけられて開発されたものである。例えば、戦争遂行に必要な通信情報を暗号化し、相手方はそれを解読する必要があり、そこで開発された技術がやがてはコンピュータ−、そして現在のIT技術へと発展した。第2次世界大戦中、戦士は塹壕中などでの不衛生な状態による病死が多かった(実際第1次大戦では銃弾による死亡より病死の方が多かった)のだが、DDT(殺虫剤)とペニシリンの発明で、この状態はかなり改善された。これらの薬品は、戦争に付随して(意図的ではなかったが)開発されたとしてよい。これらはすべて、後に問題を起こすことになる。原発の問題はすでに述べたが、DDTはやがて大規模な環境問題を引き起こして、現在ではあらかた禁止され、ペニシリンその他の抗生物質には、耐性菌の発生が問題化している。

人類が抱える様々な問題を技術的に解決してほしいという人類の願望は強い。願望が強いばかりでなく、多くの問題は技術的に解決できるはずだという、技術への信仰が人々に強い。開発に携わる科学・技術者も、自分達のやることを押し進めることに自分達の存在意義を見いだして、積極的に参加する。それを開発することによって利益を得る企業がそうした技術開発を強力に押し進めようとする。経済の新自由主義が蔓延している現在では、こうした技術開発が、人命とか社会福祉増大を犠牲にしてまで、利益を目ざして強烈に押し進められることが多い。このような開発には、持続可能性の追求、社会・環境への影響などが考慮されることは殆どなく、場当たり的、対症療法的なアプローチが大部分である。

最近注目されている技術の一つは、いわゆる地球工学(Geoengineering)である。地球という環境そのものを、人間にとって都合のよいように人為的に変えようというものである。地球温暖化を緩和するために地球環境を操作してみようという試みが現在、提案され、試みられている。空気中の2酸化炭素を減らす技術には様々な提案があるが、その一つに、海洋に鉄化合物をバラまこうというものがある。海洋の植物生育(プランクトンなど)が、現在の海洋では十分に行われていない。それは、その生育に必要な鉄が、海洋には不足していて、それがネックになっているからである。だから、鉄化合物をバラまくことによって、植物プランクトンの生育を促進し、そしてそれが光合成で、2酸化炭素を消費してくれるだろうという期待である。まだ具体化段階までいっていないが、鉄化合物の性質を考えれば、こんなことはうまくいかないだろうと予想されるし、うまく行くと仮定しても、それが海洋の生態系に甚大な影響を与えかねないことも考慮するべきである。

大気の温度そのものを下げてやろうという試みもある。空気中に長く滞留するような微粉末をまき散らし、それが太陽光を反射して、宇宙空間にはじき出すことによって、太陽光の地球への到達量を減らす。いわば人工の雲を作り出そうというわけである。 これはいわゆるケムトレール(Chemtrail)がそれだそうで、すでにかなり広範に試みられているといわれている。

雨をもたらす方法は、すでにかなり試されてきたが、主として銀塩などの微粒子をばらまき、それが水を凝縮させるというやり方である。今試されているのは、強力な電波を上空に向けて発し、空中にイオンを作る。それが、水滴の核になって雲を発生させ、雨をもたらすというものだそうである。広く報道されていないが、スイスのある会社が、ドバイの首長から持ち掛けられて、そのような実験施設をドバイに作り、昨年6回にわたって、あの砂漠の国に雨を降らせたのだそうである。アラスカにある米軍施設(HAARP)は強力な電波発信装置で、大気圏の電離状態、オーロラ発生などを研究していることになっているが、地球工学の一端を担う研究を行っているとみられている。また、これが発生する大量のエネルギーが、逆に北極圏の急激な温暖化(氷原の減少)に関係しているかも知れないという意見もあるようである。

地球工学は、人間が自然現象・自然環境を自分の思うままに操ろうとする試みである。しかし自然についての現人類の知識は限られているし、地球が45億年をかけて築き上げ、それに生物が約30億年をかけて適応してきた自然環境を人為で変えようとするのは、十分な検討を要する。おそらく十分な検討によっても見逃すことは多々あるものと覚悟しなければならない。人知はまだまだたかが知れているという基本的な認識・謙虚さが必要であろう。

人間の健康への様々な人為的介入—医療・薬剤・ワクチンなどーについては別の機会に。


9.29.2021

人類の当面する基本問題(11) 少ない物資で有意義に生きるという挑戦(日刊ベリタ2011.01.16)

今までの議論で、明らかになってきたことの一つは、(特にいわゆる先進国の)人々が今よりもはるかに少ない「モノ」「エネルギー」で生活しなければ、人類文明は持続できないということである。できれば、先進国では現在の2025%程度まで落とす必要がある。おそらく、いずれは更に落とす必要があるであろう。

さて選択肢は、(a)そんなことはおかまいなしに今まで通りにするか、(b)もっと質素だが、有意義な生き方をなんとか探して実現しようとするかである。前者を選べば、おそらく一般人の生活はますます悪くなり、数年後から数十年後には、酷い状態で社会は大混乱になるものと思われる。後者の道を選ぶ方が得策ではないであろうか。

2酸化炭素排出問題で、日本では、すでに十分に省エネを実現しているから、さらに2酸化炭素排出を減らすことは難しいと思われている。しかし、さらに5070%程度減らすことはやろうとして出来ないことはない。技術的に不可能なことはない。成長経済を継続する限りではできかもしれないが、経済も減速している筈(人類の当面する基本問題(10):日刊ベリタ2011.01.12)だし、再生可能エネルギー(太陽光、風力など)への変換が進行すれば、化石燃料を使わずに、悠々とできるであろう。

人類全体の消費を減らすには、原理的に、(1)人口を減らす,(2)個人消費を減らす、(3)両方を減らす、の3方法がある。なお、消費を減らす必要のある人々は主として先進国の国民である。人口を減らすことは別に論じる。

そこで、(2)のやり方を考えてみよう。消費を現在よりもかなり減らしても、質素ではあるが、物質的には現状からそれほどかけ離れない生活をするにはどうするかである。これも原理的には、簡単である。個人として消費しなければならない基本的なもの(食料、衣料など)は、個人が必要とする量(過剰ではなく)を個人が消費する、しかし、個人だけで消費する必要のないモノは、何人かで共有/共用する。食事は個人消費が基本だが、料理・食事場なども共用すれば、さらに消費削減になる。現在でも試みられているコンミューン的生き方である。現在は各家庭で所有しているモノ、例えばレクリエーションのための道具、車などなどを数軒から小コミュニテー単位で共有し、必要に応じて共用すれば、現在の生活程度を落とさずに、全消費量を減らすことができる。交通機関の公共化は、この傾向の大規模な例である。現在の車(個人所有)社会からの離脱が必要である。エコカーに鞍替えすれば、環境にやさしくてよいことは事実で、それを奨励することは良いことだが、車そのものの数を減らすことこそ考えねばならない。

これまで(「人類の当面する基本問題」111)述べてきたこと、その中で、今後はこうあるべきという事情は、現在の状況とあまりにもかけ離れていることは承知している。特に収縮経済の主張は、とんでもない馬鹿げた理論と考えられるものと思われる。しかし、自分の回りばかりでなく、アフリカの子供達や、自分達の孫やひ孫の時代を想像してみていただきたい。今のままの消費で、ひ孫世代にまで十分な資源を残せるとお思いだろうか。収縮経済が不可避とするならば、なるべく早くそれに対応する経済体制を編み出して、混乱を最少にするように努力するべきであろう。


9.28.2021

人類の当面する基本問題(10) 成長>収縮>定常経済へ(日刊ベリタ2011.01.12)

 

人類は、現在、エコフットプリントの概念でいうと、地球の可能収容力(量)をすでに20%程過剰消費しているそうである。これは人類総体のことで、国・個人の消費には大きな差がある。全人口の80%が途上国におり、それらが、平均して可能収容力の50%の消費をしていると仮定すると、残り20%の先進国の人々は、平均して、可能収容力の400%を消費していることになる。全世界の人々が、地球の可能収容力内で、似たような物質レベルで生活できるようにするには、先進国の人々は消費量を、少なくとも現在の1/4程度まで落とす必要がある。(これらの計算は大雑把なもので、正確性は保障のかぎりではない)

すなわち持続可能な文明を築くには、先進国の物質消費を現在よりも大幅に低落させ、途上国のそれはかなり底上げする必要がある。(勿論、このシリーズでは、全世界の人々全てが、かなりの程度、似たような生活レベルを享受する権利を有するという前提があるし、その前提下での持続可能性を問題にしている)。すなわち、全世界レベルでは、人類の消費は、現在の先進国レベルよりかなり低いレベルで維持されなければならない。

現在の基本的考え方は、先進国であれ、途上国であれ、「成長経済」一本槍である。経済成長=雇用拡大=個人の幸福度増大という図式だそうである。現実には、しかし、雇用も個人の福祉も増大せずに、経済の成長分は、企業家・資本家の懐に入ってしまうようになっている。この傾向はとくにここ30年ほどの間に顕著になってきた(イギリではサッチャー、アメリカではレーガン政権の新自由主義採用から)。このような状態が持続するためには、人類の大部分が生存ぎりぎりの奴隷状態で,経済エリートに奉仕する体系にならざるをえない。現在のオバマ政権もこの政策を継承している。そしてそのためには、おそらく、現在の大人口は必要ないであろうー少数のエリートを支えるだけなのだから。このような人類の状態(人口削減)の実現に向けて意図的にか,無意識のうちにか、ある種の人達が動いている可能性はある。

しかし、このような経済体系(成長経済+格差拡大)は自己矛盾している。経済成長しても、それを消費してくれる筈の人間が、消費できない状態に陥ってしまっているからである。しかし、そうしたエリートの数が微小(現在では、全人口の0.1から1%ほど)ならば、それほどの経済成長も必要ない。それでも彼らエリートの豊かな生活は維持できるであろう。すなわち、少数のエリートだけの持続社会は、現在の経済機構で可能かもしれない(他の大多数は奴隷的状態として)。実は、多くの地域で、このような経済体制が近代以前は主流であったのである。日本の平安朝までのエリート(貴族)社会は,農奴の上に成り立っていたし、ギリシャ・ローマ社会も奴隷に支えられていた。

現在の先進国対途上国の関係は、この古き時代の貴族対農奴という関係に対応しているし、現在出来しつつある先進国内の経済格差も同様である。一部の人間のみが奢侈な生活を持続しているのであって、人類の大多数は生きるのに呻吟している。しかし、人類全体を現在の先進国ほどの物質消費を行うレベルまで引き上げることは、実現不可能である。忽ち地球の資源を枯渇させてしまう。したがって、人類全体(大部分)がまともな生活をかなり長期にわたって出来る、持続可能な文明を実現するためには、「経済成長」は止めて、「収縮経済」からやがては、現在と比較するとかなり「低レベルの定常経済」に持って行かなければならない。これは主として,先進国や、かなりのレベルに達している発展途上国においてのことであるが。

これが最も困難な問題である。消費生活にどっぷり浸かってしまっている人達に、そのような奢侈な生活はするべきではないということを納得させることはできないのかもしれない。それは、経済上層部の人達(中国などの途上国のそれを含めて)ばかりでなく、現在の先進国の大部分の市民にも当てはまるであろう。経済が破綻して、少数を除き、大部分が否応無しに消費を減らすことになるまで、消費文明は解消しないのかもしれない。ただし、現在の先進国における最低限の生活ですら、例えば、江戸時代の富裕階級と比較しても物資的には豊ではあるし、数世代前の自分達の祖先達と比較してもずっと良いのではなかろうか。

そこで、どうしたら、現状から、「収縮経済」>(低レベル)「定常経済」に移行できるかをちょっと考えてみたい。ここで述べるのは単なる思いつきにすぎない。多くの人が、この問題を検討するべきであろう。いわゆる経済学者にばかりに任せてはおけない。むしろ大部分の経済学者ほど、視野の狭い人々はいないようである。

(1)まずこのような経済体制の変換が必要であるということの認識が、大多数の人々の間で常識になる必要がある。しかし多くの人々(先進国)にとっては実感のわかないものであろう。メデアや教育を通して、人々が納得するようにならなければならない。

(2)これからは、今までのように「使い捨て」とか「贅沢」「奢侈」といったことは、人類の道徳に反することであるという意識も育てる必要があろう。「モノやカネを多く持つこと=幸福」という観念を捨てること。幸福とはもっと別なところにあるはずだという観念も。

(3)消費が少なくなれば、今までのような産業構造では、雇用が確保されなくなる。そのためには、少ない量の生産で、雇用を増やすような施策を工夫する必要がある。それは、現在のオートメ化、機械化を極力少なくし、必須な場合を除いて、ハイテク依存を少なくする。そんなことをやっていては、国際的競争に勝てないということになるであろう。「収縮経済」への過程では、弱肉強食的競争は放棄し、経済の非グローバル化が進行していなければならない。

(4)いずれにしても、経済活動は、一般に低下し、そのため、出回る「カネ」の量も減少するであろう。(カネによって得られる)モノは減っても、ある程度の生活は維持できるが、健康維持、高齢者介護その他のサービスまで、カネが回らなくなるであろう。サービスは、「カネ」の授受によらない方法(サービスの交換制度)でも提供されるようにしなければならない。

(5)このような経済体系では、経済そのものを根本的に考え直されなければならない。経済は、人々の生活を支援する仕組みー必要なモノを生産、雇用機会提供、サービス提供などーであって、利潤はその目的ではないという概念が確立されなければならない。そしてそのためには、利潤以外のものに、インセンテヴを見いだすようにしなければならない。こんなことは、人類に可能だろうか。

 

言うは易く、行うは難しの典型で、上のようなことをどう実現して行くかは難しい。しかし、人類が長く生き残るためには、なんとか実現していかねばならない。みなさんで考えてほしい。(未来の持続可能な文明の一例は「アメリカ文明の終焉から持続可能な文明へ」で論じた。下のサイトから無料でダウンロードして参照していただきたい。

http://www.e-bookland.net/gateway_a/details.aspx?bookid=EBLS10071200)

9.27.2021

人類の当面する基本問題(9) 自己抑制精神の欠如(日刊ベリタ2011.01.7)

以上何回かにわたって指摘してきた現人類の問題は、結局のところ、人間個人の「物質欲」「金銭欲」、その他の欲望の追求に主として起因している。何かを獲得(金銭、名誉、地位など)する努力は、多くの文化で、美徳として賞賛されている。「求めよ、さらば与えられん」とキリスト教聖書にもある。アメリカの教育には、生徒・学生が「成功」することを目ざし、それを達成できるように指導することこそが、望ましい教育だという観念がある。もちろん、「成功」といっても、様々な場合があるし、人生になんらかの目的や意義を見いだし、達成する努力は必要であろう。しかし、その成功とはどのような状態であるべきなのか、すなわち、モノを獲得するとして、達成(成功)とはどのような状態なのか。無限に「求め続ける」ことが良いことなのか。このようなことは、多くの場合、意識に登っていない。ただ、何かを獲得すると,さらにもっと欲しくなるという傾向が多くの人にあるようである。

さてこのような人類の状態はいつからどのようにして、発生したのだろう。採集・漁猟に頼って生きていた時代は、生存のための最低条件を満たすのに精一杯で、余分なモノを求める余裕はなかった。しかし、人類は狩猟時代から、食欲を満たす必要以上のモノを殺傷した経緯もある。そのために、マンモスをはじめ、大きなほ乳類を絶滅させたらしい。

農業や畜産業を発明し、生きる最低限以上のモノを獲得できるようになって、始めて余分なモノを欲求する余裕ができてきたのであろう。そしてこのような欲求は、人間本来のものなのだろうか。 例えば、ライオンは、満腹でありさえすれば、敢えて餌を求めようとはしない。空腹とか生殖などの必要生理を満たす以外の欲求は、人間に近い類人猿は別にすると、普通の動物にはないのであろう。ただし、季節の変化による食物の減少を予想して蓄える動物はかなりいる。しかし、生理現象以上のものではない。

人間は、その生理上、自然の提供するものだけでは生存が難しい。例えば、衣服や住処を必要とする状況下にも進出したため、それらのモノを必要とするようになった。普通の動植物は不利な状況下へは移動しない。というより、不利な条件下では消滅するのみである。人間は、その頭脳故に、単なる生存以上のことに関心を抱き、新たな可能性を求めて地球上の様々な地域に進出した。

人間集団は,単なる群れから進化して,社会を形成するようになった。比較的小集団で、集団形成に共同作業が主要要因であるような場合には、集団内の人間は比較的平等なのであろうが、集団が大きくなり、集団内に様々な異なった機能が必要になると、階層的構造ができてくる。これが社会である。そして、異なった階層人には、生活態度、獲得できる資産などに差が生じる。そして、この違いは、各層の人々に、欲求(地位や物質への)を生み出した。これは、生理的必要以上の欲求であり、人間特有のものである。

古代インドですでにこのことに注意を払った人が仏陀である。仏陀は貴族階級の家に生まれたが、その奢侈な生き方を放棄して、人間の本質、生きることの意味などを追求した。その結果、人間の煩悩、業からの解脱を推奨した。その根本的な生き方は、自己抑制の精神といってよいであろう。または具体的には「 貪欲を放棄し、祖末な食事で生きることに満足せよ、あれこれ思い煩うな、質素な生き方をし、奢り高ぶるな」となる。

他の文明、中国・中近東・ヨーロッパなどではこうした自己抑制的考え方は意識されなかったようである。中国人には、奢侈への憧れが根強いし、中近東の遊牧民は、宝石など移動に差し支えない奢侈品を欲する。しかしながら、これらの傾向は、人口が少なく、物資供給が限られていた、産業革命以前では、地球規模の問題にはならなかった。

一方、日本の江戸時代は、鎖国という政策のため、日本人の生活は、他国とのモノの出入が殆どなく(ゼロではなかったが, 主として金属類の輸出)、限られた国土と太陽光というエネルギー源のみへの依存という点で、現在の地球の小規模なモデルを提供する。しかも人口はかなり多く、現在の地球全体の人口密度の2倍以上はあった。農業主体経済ではあったが、かなりの鉱工業(ほとんど手作業)も発達していた。江戸時代250年間ほど、このような状態で、十分文化的にも優れた社会を持続させた。それは、限られた物質・エネルギーを用いて、自己抑制の精神と自然との調和を主体とする生き方で可能であったようである( 落合:日刊ベリタ2008.12.01)。この点は、したがって現在の世界が持続可能な文明を築くにあたって参考になるものと考えられる。

産業革命によるエネルギー高依存・工業的大量生産が全てを変えてしまった。生産する側は、資本主義原理に基づき、生産したものから利潤を得なければならない。利潤を増大するためには、より多く作り、より多く売らなければならない。そこで、宣伝活動その他、あらゆる手段で人々の消費欲をかき立てた。「需要を喚起し、消費を促進する」。今回(2008年−)の経済危機を乗り越えるための方策にはこのスローガンが殆ど唯一の解決策として唱えられている。このように資本主義市場経済では、拡大(経済成長)のみが生き残りの原理だと考えられている。そして、人々により多く消費させることをあらゆる手段を用いて画策している。このような、大量消費文明では、「自己抑制」の精神は忘れられ、「悪」とさえ看做される。

モノにあふれた生活を経験した人々は、モノを減らし、質素に生きるという方向には、非常な抵抗(不安)を感じる。モノを大量に持つためには、不安定な経済生活をせざるをえない(クレジットカードの払いをどうしようかなどを思い煩うなど)事態になったとしても。自分の幸福とは何かを十分に考えず、資本の側からの消費奨励工作にどっぷり浸かってしまっていて、「モノを多く持つこと=幸福」という考え違いしていても気がつかない。こういう生き方を抜け出さないかぎり、人類に持続可能な文明はやって来ず、早晩資源枯渇・環境破壊などの自然からのしっぺ返しで人類文明は破滅という結果になりかねない。

なお、安原和雄氏は、この欄で、こうした問題を「仏教経済学」という視点で考察されておられるので、参考にされたい。


9.24.2021

人類の当面する基本問題(6) グローバル化(貿易の完全自由化)の是非 (日刊ベリタ2010.12.08)

グローバル化そのものは、15世紀(以前からもあったではあろうが、大規模なものはなく、人類の全体への影響は些少)から始まった西欧からの、海上交通を通じての交易(といっても初期には、西欧による他国からの資源(金銀)の収奪)から進行していたと考えてよいであろう。グローバル化はそうした他国人同士の接触がもたらしたもので、広い意味では、人類が、国境の枠を越えて、他国の民や文化に接し、意識し、影響し合う動きとしてよいであろう。そしてこのようなグローバル化は人類の向上のためには望ましい。

しかし、狭い意味では、第2次世界大戦後の全世界的貿易自由化の動きであり、現在では、WTO(世界貿易機構)が代表的推進機構である。関税その他の障害を取り除いた自由貿易により世界の経済活動を活性化し、人類全体の福祉を増大するというのが主張である。世界のあちこちで、地域レベルの自由化は行われている。ヨーロッパ経済連合や北アメリカ経済連合などがある。2010年のAPEC会議(横浜)では、アジア地域での貿易の自由化、環太平洋域の自由貿易協定(TPP)が話題になった。多国籍大企業や、政府からのバックアップのある大農業生産国などは、関税障壁などがなくなれば、自由に商圏を拡大することができる。

世界の全ての国が競争可能な程度の経済状態にあり、資源も同程度に保有しているならば、自由貿易で、互いに益するところはあるであろう。しかし、現状は、そのような状態からは程遠い。競争力が伯仲している国々もあるが、大部分の国は,競争力が弱く、自由貿易では,競争力の強い相手に負けて,負けた国の国民が困窮するのは目に見えている。例えば、農業などの競争力のない、しかしその国にとって不可欠な産業がつぶされることは必定である。このような事態はすでにかなりの程度起っている。すなわちグローバル化は、経済大国や多国籍大企業の経済支配をさらに押し進め、国家間の経済格差を増大させるのみであろう。

また、グローバル化の結果、例えば農作物が単一化されがちである。それは、特定の支配的大企業が、種子供給を独占し、地域の生態系などを無視して、単一種に絞りがちであるから。それが、企業にとっては、利益という点では有利なので。作物の単一化は、その生態系を不安定にする。自然その他の原因(天敵発生など)で、その作物が消滅の危機に晒されると、作付けされたその植物が全滅する。すなわち、人類が必要とするその植物が一気に消滅し、人類は食料危機に陥る。

さらに長期的視野に立ってみると、グローバル化にはもう一つ重大な問題がある。大量の物資の長距離輸送を必要とすることである。例えば、カナダバンクーバ−のスーパーマーケットにオーストラリア産のマンゴーが並んでいる。このような例には多くの問題がある。まず長距離輸送の運賃、現在は輸送手段のエネルギー源が不当に安く設定されているので、経済的に可能だが、いつまで続くか。長距離運送に伴う環境への負荷、また人の口に入るまでに長時間かかるので、保存の仕方(それが引き起こす汚染問題など)などなどの問題がある。

大量に必要とされるが、自国で生産(農業)できるものは、できるだけ自給自足にする必要がある。気候、土壌その他の条件で生産できないが、不可欠なものは、必要最小限を輸入に頼る。こうすることによって、長距離輸送に付随する多くの問題は避けることができる。いずれは、輸送に必要な安価なエネルギー源が枯渇すれば、長距離輸送は経済的でなくなる。すなわち自由貿易は経済的にできなくなる。

しかし、このような状態(反グローバル化)こそが、おそらく持続可能なのであろう。それは様々な理由を総合した結果なのである。まず、農業で生産するものは、地域に依存し、その環境に適応したものになる。地球全体でみると、多様化していることになる。地球全体の生態系にとって、多様化は安定の必須条件である。生態系が安定でなければ、人類文明は持続できない。

現在のグローバル化状況下では、大企業が先進国相手の嗜好品(コーヒーなど)などを途上国で大規模に作らせて、経営者の懐を肥やすが、その途上国での必須な品(食料)の生産を阻害することになる。その地の農民は、こうした嗜好品の輸出から得る僅か(先進国企業が搾取;最近は公正取引などで改善されている場合もあるが)な現金で食料を買わざるをえない。そして、自分達のコントロール外にある世界市場に自分達の生活が左右されることになる。農業を、本来の自分達の必要を満たす方向にもって行く方が良策なのである。

日本のような先進国でも、食料確保のためには、農業をさらに振興させ、自給自足になるべく近づける必要がある。それは、地球温暖化に伴い世界の大農業国の食料生産が不安定になりつつあり、そのような食料輸入に依存していると、場合によっては、日本は飢えざるを得なくなる可能性がある。

グローバル化は、一方、金融による経済支配を進行させる。それは、貿易による取引は、特定貨幣(例えば、米ドル)によることによって簡素化され,促進される。そして、その貨幣を扱う企業が、グローバル市場を支配する。経済の金融支配は、現在様々な経済・政治・社会上の問題を引き起こしていることは周知のことであろう。

以上、簡単ではあるが、グローバル化の問題点をいくつか指摘した。食料その他の必需品の自給自足化に基づく経済体制(反グローバル化)こそが、持続可能であろうし、社会正義にも貢献するであろう。食料などの自給自足とは別に、多くの工業生産品が作られているが、それらの、必要に応じての輸出入を否定するものではないし、先にも述べたが、自国で生産不可能だが必須なものの輸入まで否定するわけはない。このような考え方は、「保護貿易主義」として、犯罪のように扱われるのが現在の雰囲気だが、そのような近視眼的考えを捨てて、もっと人類の将来のことを考慮に入れた議論をするべきだろう。


9.23.2021

人類の当面する基本問題(5) 資源獲得競争 (日刊ベリタ2010.12.01)

現実問題として人類の直面する明白な問題の一つは、資源の枯渇に伴う、その獲得競争であろう。石油をめぐっては、すでに様々な国際紛争を引き起こしている。大量に必要とするが資源としては存在量の比較的少ない「銅」などの金属類、それにいわゆるハイテクに必要な希土類金属(レアーアース)、そしてこれからの電気自動車その他のための電池の材料であるリチュームなど、様々な資源は存在場所が限られていて、量的にも少なく、それらの資源を確保すべく多くの国が凌ぎを削っている。もっと基本的な「水」の確保に基づく角逐も懸念される。

根本に、人々の「モノ、製品」への飽くなき欲望があり、というよりは、欲望をかき立てる(成長)市場経済体制があり、それを充足させて儲けようとする欲望がある。この点中国の場合は、個人的な欲望というよりは、中国国民全体の物質的生活向上への渇望が、中国政府をして執拗な資源確保へ走らせている(中国の問題は「人類の当面する基本問題」シリーズで別に論じる)。中国では現在このような段階(大衆消費)に達しているが、インド,ブラジル、東南アジア各国もすぐ後に続くであろう。しかし、これらの国は政治体制が中国とは異なり、国民の政府への要求の程度は中国ほどではない。

いずれにしても、人類が「モノ」を欲しがるかぎり、資源獲得競争は続く。資源は有限でしかない。月とか火星に資源を求めるという動きもあるが、技術的には可能になるかもしれないが、経済的には無理であろう。その有限な資源も地球上に平等に分布していればまだしも、その分布は非常に偏在している。そして現在のところ、地球上の人類は国という地域社会にわかれていて、その地域にある資源はその地域が所有することになっている。そして境界は往々にして国家間の力関係で決められている。しかも個人であろうと国であろうと、現在は「所有」ということは神聖で、所有者以外の人間や国が、勝手に取り上げることは通常はできない。

ここでの基本問題は、(1)国と国との境(特に海上)というものが曖昧であり、境界線周辺にある資源はどちらの国に属するか、(2)資源を欲しい国が、資源を持つ国からどのように資源を獲得するかの二つである。資源が払底してくれば、その値段は高騰するであろうから、資源獲得はますます困難・熾烈になる。いずれは、資源獲得のための武力衝突が起る可能性が高い(特に、中国と欧米間で)。これは、現在のアメリカ(NATO諸国も含む)による(石油資源を目ざしての)アフガニスタン・イラク侵略のような一方的侵攻以上のものである。

さてこの問題の解決策であるが、解決策の第1は根本的解決法で、地球市民が地球上の再生不能資源は人類全体に属するものであり、したがって資源は必要に応じて、公平に各国に分配されるべきということ、そして再生不能資源は十分に倹約して使用されるべきことに関して合意が得られること。こうしたことは、国際的協定の下、国際調停機関を設立して管理にあたる。このような協定は、天然資源ばかりでなく、大分性格は違うが、「土地」「水」についても作られるべきである。このような理想的方法に各国が合意することは、ナショナリズムに凝り固まってしまっている現人類には当分、無理な相談ではあろう。

解決策の第2は、資源は産出国所有のものであるとしても、国家間で資源・サービス・製品などを相互に納得のいく仕方で供給・提供しあう協定を結び、武力行使を伴わずに実行すること。具体的にはどうするか、非常に難しいこともあろうが、なんとか妥協点を見いださねばならない。曖昧な境界線周辺の資源開発も双方の十分な交渉によって、同様な仕方で、合意点を見つけなければならない。

以上、資源獲得が各国間で武力を使わずに行われたとしても、その先に問題がまだある。それは、このような情勢で、資源がかなり急速に消費されてしまうことである。資源の枯渇も、今のような人類文明の消滅を意味する。そこで、第1の解決策の付帯条件「再生不可能資源は十分に倹約して使うべき」(再生可能資源もその可能限界内で)ということに関して全世界の合意がえられることが必須である。

現在の大方の問題意識は、下降した経済をどう立て直し、経済を成長させるかにあるようである。目先だけに注目していたら、そのような考えしか浮かばないのであろうが、長期の人類文明に想いをいたせば、経済(物質的、金銭的)をいつまでも拡大することが不可能なことは自ずと明らかになるであろう。そして、政治家も、経済学者も企業家も、この不可能性を原点にして、経済を立て直す方策を立てねばならないのだが。どのような経済体制がありうるかに関しての簡単な考察は、拙著「アメリカ文明の終焉から持続可能な文明へ」(注;無料でダウンロード可)で行った。

 

(注:http://www.e-bookland.net/gateway_a/details.aspx?bookid=EBLS10071200&c=238)

9.22.2021

人類の当面する基本問題(4) 人はなぜ権威というものに追随するのか(日刊ベリタ2010.11.25)

現在の世の中(に限らない)での様々な場面で、人々が無思慮に、場合によっては良心に反してまで「権威」(政治権力者、教師その他)というものに追随することによって問題が発生する。イラクのアブグレイブ刑務所で、アメリカの下級兵士が上官の命令で、嬉々としてイラク囚人を虐待した事件がその典型例である。 
     1960−70年代にミルグラム博士が行った実験(注1)は人々にショックを与えた。これは記憶と学習をテストする模擬実験で、実験リーダー(権威)は被試験者に「君たちは教師であり、別室に居る生徒にクイズを出し、間違った答えがあれば、学習を助けるために電気ショックを与えよ」と伝える。ショックは最初15ボルトだが、間違った回答がある度に少しずつボルトを増して行く。最終的には450ボルト(危険と表示される)まで上げて行くことができる。生徒はショックを受ける度にうなり声を発したり、悲鳴を上げたり、勘弁してくれとかの声をあげる(勿論演技であり、被試験者には声しか聞こえない)。参加者(イエールの学生、普通市民)の3分の2の人々は、この状況下で、途中でショックを与えるのを拒否せず、最高ボルトまで上げるのに躊躇しなかった。アメリカ以外の人々についても、女性についても男性と同程度の結果が得られたと報告された。ここでは、被験者は、実験リーダーはショックの効果を十分に検討しつくしているのだろうから、言われるままにすればよいのだと、思い込むのであろう。苦痛の悲鳴に反応するはずの良心が抑制され、それに疑義を差し挟むことはあまり意識に登らない。 
     アメリカでの911事件—いわゆる同時多発テロ。多くのアメリカ市民は、自分達の政府(権威者)の発表した事件の内容/原因の報告を信じ込んでしまっている。かなり明白な疑問点が多々提出されているのにも拘らず、権威がすでに発表したことを信じるが故の市民達の無関心をいいことに、公式発表以上の解明の努力は権威の側では行っていない。疑問を差し挟む側は少数派で、一般には無視される傾向にある。 
     もっと長い間の人類の歴史を見れば、神、とくに一神教の神という権威があり、その権威が書いたと称される聖典の言葉が、人々の考えや行動を律してきた。これは、時々に変化する政府などの権威よりも、もっと堅固である。この場合には、信じる人の行動は、良心に反するというようなことはない。自分の信じていることこそが正しいと信じているのだから。宗教に影響された長い歴史の中でも、ある人々は疑問を抱き、自分の宗教を批判的に見ようとしてきたし、現在そのような人が増えているが、一方聖典や神の権威を信じ込んでいる人もまだかなりおり、そのような聖典に沿った行き方を、他の多くの人々(政治や経済、司法面にまで)に植え付けようと努力する人々もいる。このような傾向は現在、アメリカ政治の場で顕著である。いわゆる原理主義的・キリスト教右派が、聖典に反すると信じる「進化論」「妊娠中絶」とか「同性愛」などなどを材料にして政治に関与している。 
     いわゆる「公」なるものの権威は、もちろん十分に正当な根拠がある場合が多いはずだが、近年は、そういう仮定が成り立たない例が多くなってきたように見受けられる。それは「公器」と看做されてきた「新聞・ラジオ・テレビ」などの主要メデイアが、特定集団(政府、企業など)・個人の利益を代表するようになり、「公器」としての正確な報道をないがしろにしがちになってきていることによる。ところが、多くの市民はまだ「公器」というものの権威を信じている。そこで、特定個人や集団はいわゆる(経済)エリートの影響の下、デマ・ウソ情報をラジオ・テレビその他の「公器」を通じて流す。とんでもないデマなのにも拘らず、多くの(権威を信じ易い)市民が信じこんでしまうという現象が今アメリカで蔓延している。 
     今回の中間選挙で使われた(とんでも)デマをいくつかを下に掲げる。このようなデマを大量のカネを使って流し、それにだまされた市民の多くが、一度は放棄した共和党をまたまた復活させてしまった。これからのアメリカの政治・社会は悪化の一途を辿るであろう。(といっても、民主党が共和党より一段とまともかと言えば、残念ながらあまり差はない)デマの多くは、オバマ氏を嫌悪する下心に迎合したもので、しかもそれにより自分達が御し易い共和党を持ち上げる効果がある。すなわち、オバマは「イスラム教徒」、「社会主義者」、「アメリカ生まれの証拠は不明」、「税を上げた、また上げようとしている」(実際は引き下げたにもかかわらず)、「(彼の作り上げた)医療保険制度では人々の「死」も政府の管理下に置かれる」などなど。また、もっと一般的なデマ(というより言っている本人の無思慮による)には、例えば,「2酸化炭素は、生物も排出する自然物なのだから、問題はない」とか「企業を規制するのはいかなる場合でも、社会主義政策だ」など。そして各州の国会議員選挙では、対立する民主党候補に関して、あること無いことデマを流した。たとえ反論が発せられようと、最初にそして執拗に流されるデマは人々の心に定着してしまう 。こうしたことが今回の選挙では、カネの力をかりて広範に執拗に行われた。大方のアメリカ市民の「騙されやすさ」を利用した、鈍民化である。このような状態では、民主主義は形骸化してしまう。 
     人類のうちの多くが、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、その他の宗教を子供のころから植え付けられていて、そうした権威に追従することをよしとする教育を受けて来たことが関係しているであろうか。しかも、現在の複雑で,錯綜し、混沌とした世の中で、十分な情報を収拾し、深く考えて真相を見極めようとするような努力は、面倒くさいので、宗教教典などの権威に従うほうが単純で手っ取り早い。多くの人は表面的にものごとを見、深く考える努力を惜しむ傾向が強いようである。 
     このような多くの人の性向を利用し、一部のエリート達は、自分達に都合のよいように市民を操り、形骸化してしまった民主主義制度を活用して、エリート支配の世界を構築しつつあるようである。アメリカに限らない。1930年代からのナチ政権ではデマを活用してドイツ国民をあのような非人間的な方向に誘導した。日本・中国でも、歴史を通じて、権威者達は、これと同様な仕方で支配しようとしてきたことも事実である。それは「民は由らしむべし、知らしむべからず」なる「論語」からの引用が、ことわざの如くに常用されてきたことが物語っている。 
     これからの人類は、これまでの常識や支配する側の言い分など、十分に懐疑的に、検討しなおす必要がある。このままでは、人類の生存は覚束ない。 (注1:http://ja.wikipedia.org/wiki/ミルグラム実験)

9.21.2021

人類の当面する基本問題(3) 人口問題と生物多様性の減少—人間中心主義 (日刊ベリタ2010.11.18)

 2010年10月名古屋で「生物多様性」会議が催された。現存の生物の多くが絶滅の危機に瀕していることが報告されたが、会議の主要話題は「生物」をいかに利用するか、その国家間での取り扱いといったことで、「生物多様性」の必要性、その維持、なぜ多くの生物が急速に死滅しつつあるのかといった本質問題はあまり関心をひかなかったようである。ただ単に「現在の消滅速度」を落としましょうというかけ声をあげただけ、しかし、それさえも、そのようなことに必要なカネを誰が出すのかで議論は紛糾し、政治問題レベルで終始したようである。 
     このような会議で明らかなのは、人間という種が、自分達は自然を支配している、人間こそが地球の中心であるという「人間中心主義」という奢りに気がついていないことである。ホモサピエンスは、地球上にほんの最近現れた生物の一種にすぎない。その生存は、地球、太陽、地球上の他生物(動植物、細菌その他の微生物)に依存している。おそらく、人類の知識や技術(近い将来のそれも含めて)で解決できない、または左右できない自然現象も多々ある。例えば、プレートテクトニクスの動きは制御できず、したがって地震や火山爆発を制御することはできないであろう。予知する技術は進歩するであろうが。天候も人類の都合のよいようにコントロールすることは不可能に近い(Geoengineeringなる考え方が最近議論され,一部は実施されているらしい。それは現在の地球温暖化を人間の技術で制御しようという試みであるが、その詳細、検討は別の機会に)。 
     しかし、これまでの人類の知識、技術の進歩により、自然の制約からある程度自由になることはできた。例えば、自然に存在する動植物の採集・狩猟に依存する生活から、農業・畜産業の発明により自らの食料を自分達で生産できるようになった。そのために自然の制約から放たれて(といってもそれぞれ、立地条件や天候などの自然制約からは免れない)、人類の数を増やすことができるようになった。こういう現象は他の生き物には見られない。これは、人類が自然から賜った脳と身体的特徴(2足歩行とそれに伴う手の動きの自由さ)による。そして近年の科学技術の進展により、自然にはない多数の、大量のモノを作り出し、医療技術の進歩と相まって、人類の生存基盤を高め、近年の人口の急上昇に繋がった。(人口問題の他の側面の議論は別の機会にゆずる。)そして「人間中心主義」はさらに冗長した。       都市化が進んで、多くの人間が、自分の生きている回りを見ると、人間が作りだしたものに囲まれている(鉄筋コンクリートの建物、道路を走り回る自動車などなど)、自然はどこにあるのかと思われる。田舎に行けば、豊かな自然が見えることがあるが、良くみると、多くの場合、それは人間の耕している畑や水田であり、森の木々も人間の植えたものである。人類が、ほんとうに生態系の中の生物の一種で、数百万の他生物や自然環境に依存して生きているという実感を味わうことは難しい。 
     このような推移を人類の側は人類の進歩と称するが、その裏側はどうなっているか。先ず人類がどの程度の物質を消費しているかを見てみる必要がある。現在人類が年に使用する全炭素量(植物起源)は約1.2 x 1013 kg/年(食料、建築材、衣料、間接的には動物・魚類などの餌など)と見積もられている。地球上の全植物(人間の栽培するものと自然のもの)生産量(炭素換算)で、およそ4.8 x 1013 kg/年と推定されている。この二つの数値を比較すれば、数百万種いる地球生物のたった1種である人類が、全炭素生産量の約4分の1を消費していることになる。現人類の人口は約67億人で、その総体を重量にするとおよそ、2 x 1011 kg。一方、地球上の全動物種の全重量は、約2 x 1014 kgぐらいと推定されるから、人類は体重割りにすると,全動物の約0.1%(この数値はかなり不確実)。この人類が、全植物生産量の25%を使用している。いかに不相応に消費しているかがわかるであろう。75%が人類以外の数百万種の動物達(その他植物依存生物)に残された分である。これだけの量で、現存の全地球動物に十分に食料を供給できているのかはわからない。もちろん,人間が使用したものをさらに食料として使用できる動物(と微生物)もいる。この間の事情を十分に正確に把握することはできないが、人類が不相応に消費し、他生物への分け前が非常に少なくなっていることは事実であろう。他の動物は、食料不足で死滅するか、毎年再生産される以上の植物を消費している(もちろん、人間もそれに加担している)のであろう。 
     一方、人類の「進歩」「人口増加」に伴い、自然環境は崩され、汚染され、他動植物の生態系は破壊される。これと上述の人類の植物の過剰消費が生物の消滅速度を速めている。この消滅速度は、過去に記録されている何回かの生物絶滅期の消滅速度の少なくとも数百倍はある。 
     このような問題は、かなり多くの人が認識しだしたようである。しかし、これ(生物多様性の減少)を止めることは現状では難しい。トキの絶滅を必死に避けようとしているし、目立った生物の絶滅を何とか止めようとする努力はしているし、そうした努力はさらに拡大しなければならないであろう。 
     しかしながら、上に述べたような人類の「進歩」とそれに伴う「人間中心主義」の精神でこの問題を解決することは不可能であろう。おそらく、人類が最大限の努力をしたとしても、生物絶滅は起こり続け、自然の消滅速度まで落ちることは、ないであろう。しかし努力をすることは必要である。どの程度まで生物種が減ったら、地球の生態系が崩壊してしまい、人類の生存基盤もなくなってしまうか今のところ誰も推測できない。人類のできることは、あらゆる手段で、生物絶滅を減らすことのみである。そのためには、人類の生き方を根本的に改める必要がある。地球・自然は人間の為に存在するという「奢り」(人間中心主義)から、人間も生物の一種で、地球生態系と調和して生きなければならないという「控えめな」態度へと。(環境と調和して生きるという生き方は、日本人の古来の精神にはあった。) 
     そして、そのためには、自然環境を壊さないばかりでなく、自然物(再生可・不可にかかわらず)の消費を控えめに、そして自分達の数(人口)を生態系にマッチしたレベルに維持するという知恵も学ばねばならない。

9.20.2021

人類の当面する基本問題(1)法人の人格という問題 (日刊ベリタ2010.11.06)

「人」は生物の一種、ホモサピエンスの一員である。これは自然人と定義される。それに対して法律上自然人のいくつかの特性を付与された組織(人によって作られた)を「法人」という。法人には、営利目的を持つものー企業・会社などと、非営利目的の組織-財団法人、宗教法人などがある。 
     自然人に関しては、国によって異なるが、通常基本的な権利(人権:ヒューマンライツ)が認められている。認められていない場合もあり、それが政治体制への批判の根拠になっている(最近の中国人ノーベル平和賞受賞問題が端的な例)。これも大いに問題であるが、ここでは議論の目的ではない。 
     いわゆる「法人」にどのような権利が認められているか、それが現在の人類文明でどのような影響を人類に及ぼしているか、どうすれば良いかなどを考えてみたい。特に問題は企業・会社などの営利組織(法人)の「人権」である。 自然人に関しては、国によって異なるが、通常基本的な権利(人権:ヒューマンライツ)が認められている。認められていない場合もあり、それが政治体制への批判の根拠になっている(最近の中国人ノーベル平和賞受賞問題が端的な例)。これも大いに問題であるが、ここでは議論の目的ではない。 
     いわゆる「法人」にどのような権利が認められているか、それが現在の人類文明でどのような影響を人類に及ぼしているか、どうすれば良いかなどを考えてみたい。特に問題は企業・会社などの営利組織(法人)の「人権」である。 法人が、生身の自然人とは基本的に異なるものであることは明瞭である。永遠の生命を持ちえない自然人がそうした組織を構成してはいるが、組織そのものは永続性を持ちうる。むしろ営利法人の主要目的は永続性・発展性(利益増大)である。また法人は、生身の人間のもつ感情を持ち得ない。したがって法人全体としては感情に左右されない(法人の中にいる自然人が感情に左右されることはあっても、組織全体は感情とは別の行動原理にしたがって行動する)。すなわち、正常人の道徳観のようなものは、企業の行動原理にはない。  
     とは言っても、法人を動かすのは自然人である。特定の法人の行動を左右することのできる地位にある自然人(経営者と資本家)の影響力が大きい。彼らは法人の行動を下支えする生身の人間(労働者、下級社員など)の感情や生活条件などは、自分達(その所属する法人)の目的に不利ならば軽視する場合が多い。そしてその目的(利益)のためには、「法人」としての人権を最大限利用しようとする。このような法規上の権利は、通常、自然人の持つ権利よりはかなり制限されたものであるが、法人が社会的に勢力を獲得して来ると,権利の拡張を画策する(アメリカでのこの間の事情は落合:日刊ベリタ2007.12.13に略述した)。  
     さて、「法人」という言葉は、日本の造語であろう。おそらく欧米からの「企業は(自然)人の性格・権利をもつ」という概念に基づいているものと思われる。この概念の根拠とされるのが、1886年のアメリカ・カリフォルニア最高裁での「サンタクララ郡対南大平洋鉄道(会社)」裁判の判決に基づいているとされる。裁判長は、この判決文の中で,アメリカ国憲法の改定14項(全ての個人は法の下、平等の権利を有する)が、企業にも適用されると述べたことになっている。すなわち企業も「人」として扱われるべきとした。この後、全ての法科の教科書にはこの判決文が引用されて、企業が人権を有するということの根拠とされてきた。ところが、近年研究者が元の判決文を調べたところ、企業の人権云々はどこにも触れられていなかったのである(判決はそのような根拠を必要としていなかった)。判決文の始めに、裁判所の書記が記した前文に、裁判長の談話(非公式)として引用されていたのである。このような書記による前文は法的拘束力をもたない。実際数年後には、この裁判で異議を唱えた判事の一人は、あの裁判で「企業の人格性を確立しなかった」ことを悔いる発言をしている。このような間違った根拠に基づいて、「企業の人権」が堂々とまかり通ってきたということは、素人としては信じがたいが、どうも事実のようである。  
     その後、企業は、様々な機会に人間と同じ権利を企業が持たないことに対して裁判に訴え、また、個人と同様に、自社を罪に陥れるようなことをしない権利も主張した。そしてついに、2010年1月アメリカの最高裁は、企業に自然人と殆ど同じ権利を付与する判決を出した(落合:日刊ベリタ2010.02.06)。これによれば、政治にも個人と同様あらゆる関与の仕方が許されるようになった。例えば,彼らの献金は、第3者を通じて行われ、直接の責任者は同定できないようにすることも可能である。これにより、カネによる、企業の政治支配が完成したことになる。11月2日の米中間選挙は、こういうカネが大ピラに支配する最初の選挙になった。日本でも、現民主党政権は、企業献金の制限を緩和しようとしている。アメリカ追従も極まったというべきであろう。  
     オバマ氏という非白人への憎悪が底にあるが、それをオバマ政権の社会主義性などなどのデマにすりかえ、それに踊らされた、かなり目立った保守的運動なども含めて、今回の中間選挙はカネの影響が甚大であったようである。オバマ政権が市民の期待に答えられなかったことと、普通のアメリカ市民がこうしたデマに簡単に振り回されるというふがいなさが根本だが。アメリカの政治は、ますます多数市民よりは少数エリートのためのものになる。「偽の人間:法人」が「本物の人間」を支配する。いや正確には、法人を動かしている少数の人間が大多数の人間を支配する。  
     このような状況で,企業の支配を拒否しようとする動きはないのだろうか。T. Hartman(注)によれば、アメリカの100以上の地方自治体で、そういう運動が起こされているのだそうだが、まだどこも法律として確立するには至っていない。それは、自治体がそういう法規を作ったとすると、影響をうける企業が「結構、法廷で争いましょう」とくる。そのような訴訟にかかる費用を考えると、自治体では争えず、法規を引っ込めざるをえないのが現状だそうである。 
     さまざまな場面で、 人格を獲得した企業(法人)が、カネを駆使して政治・経済・社会に甚大な影響を及ぼしているのが現在の人類の状況である。特に、富を少数が収奪(そうなるような政治経済機構を作る)し、大多数の人間を貧困に陥らせている。最近のデータによると,昨年、アメリカのトップ74人の年収は、最下位1900万人の年収に匹敵する(トップ階層の一人は下位の26万人分の収入を手にしている)。 
     WTO組織では、企業の利益が最優先されて、それを損なうものは、抑圧される。例えば,GM作物が、近隣の農場に自然状況下(風などによる)で移植し、それに気がつかずに栽培を続けていた農家が、GM作物供給の企業から訴えられ、WTO下で農家が敗訴し、賠償を払わせられた。 
     例を挙げればきりがない。現在の人類文明の遭遇している問題の根本には、この法人という概念とそれに基づくカネを用いた少数による多数の支配構造がある。法人という法に基づく組織が、大多数の人間に不幸をもたらしている。このような構造は、理論的には「法」を改正して、企業の人格を制限することによって規制することができる筈である。それには立法府そして行政府(司法も)が、カネ(企業)の支配から脱しなければならないが、最近の例でいえば、アメリカの金融企業の野放図な金儲けの試みの結果の金融・経済危機を回避するための規制法規は、形だけで、実質的・有効なものをアメリカ議会は編み出せていない。どうしたらよいのであろうか。 
 (注 http://www.alternet.org/books/148608/the_supreme_court_sold_out_our_democracy_--_how_to_fight_the_corporate_takeover_of_our_elections)

9.01.2021

李里花さんの講演「朝鮮籍とは何か トランスナショナルの視点から」に寄せられたTさんの感想

 8月28日にカナダ9条の会主催・ピース・フィロソフィー・センター協力で開催されたオンライン講演


李里花さんを迎えて「朝鮮籍とは何か トランスナショナルの視点から」


 

 に参加してくれたTさんが丁寧な感想を寄せてくれました。Tさんは、このイベントで司会をつとめたピース・フィロソフィー・センター代表の乗松聡子の大学時代の後輩で、現在は大学教員です。Tさんの許可をもらい、ここに共有します。

以下、Tさんの感想:

私は、極めて「右より」の思想の家庭に育ちました。そして、幸か不幸か、自分の生活に朝鮮半島を近づける必要もない、目をつぶっていても差し支えない環境に(たまたま)身を置いてきました。けれど、やはりそれではいけない、何か知りたいと思う気持ちが強くあって、この度こちらの講演会が聴けそうだったので、純粋な好奇心から参加をしました。

参加なさっている方々の多彩な顔ぶれ、カナダ9条の会の熱心な方々、そして李里花先生を含めた、国と国とのいわゆる「間(あいだ)」におかれてしまっている、韓国籍や朝鮮籍の複雑な状況を生き抜かざるを得ない皆様の、和やかで、しかし怒りを秘めた、そして強い姿に感動を覚えました。こうした人々を一つにまとめている乗松様や周囲の方々の活動はすごいなと、初めて目の当たりにして感じました。

なぜこの話題に興味があったのか、という個人的な話を少し紹介させてください。私の父は1927年に今のソウルである京城で生まれました。そもそも祖父が電機関係の会社で、外地に出向していたからです。父は自分が韓国生まれであるということを、自分から子どもたちに向かって話すことは一度もありませんでした。その事実がすごく嫌だったようなのは、そぶりで分かりました。けれど、私が聞きたがると、朝鮮の子どもたちを揶揄するザレ歌のようなものを歌ってくれることがたまにありました。祖母は、京城で韓国のお手伝いさんが来てくれていた話をしてくれ、韓国語の「もしもし」は「ヨボセヨ」だというのがお気に入りの話題でしたが、生活の話は一切しませんでした。結局、父は体が弱くて、8歳か9歳ぐらいで、祖母に連れられて日本に戻ってきたとのこと。祖父はその後もずっと京城暮らしでしたが、終戦近くなって朝鮮半島からフィリピンに出征し、帰らぬ人となりました。

私自身記憶はないし、謎が多いけれど、朝鮮半島というのは、本当は自分のルーツにとって大事な場所なんじゃないか、そう私が心に刻むようになったのは、幼少時に聞きかじったそんな記憶に結びついているからだと思います。多分、言葉にしてもらえなかった不自然な空白部分を、なんとか補いたいと言う気持ちがあるのでしょう。

高校時代には、韓国名を名乗っている、実家が焼き肉屋さんの同級生がいました。それが初めての「韓国人の友達」だと思っていましたが、大学に入って初めて、「日本名」で生活している朝鮮半島の文化を持っている方が多くいることを知り、驚きました。要するに、まったく無知蒙昧だったわけですが、本当に最近になって、自分にとても身近なところにも、マイノリティとしてのアイデンティティを秘めつつ、しかもそれを決して声にすることのない人たちがいることを、やっと現実の問題として実感するようになりました。

本講演会のお話を聞きながら、そういう身近な人たちの顔が目に浮かび、今まで知らなかった世界が広がっていくのを感じました。私自身は別に韓流ファンでもないし韓国語ができるわけでもありません。だから李里花先生や皆様の具体的なお話を、本当の意味で「実感」したわけではないのです。けれど、自分の生活の身近な場所にいる、例えば上司や部下や同僚といった人々も、ひょっとすると朝鮮半島とつながりを持ち、私の想像を絶するような世界に住んでいるのかもしれない、また彼らは現在困った立場にある人々を人知れず助ける立場に立っている人なのかもしれない—そんな想像が広がりました。そしてその想像は、なぜか自分をほっとさせてくれるのです。それは自己満足に過ぎないし、ましてや自分の祖先が送っていた帝国主義的な生活を正当化するものではないとは知っていますが。今の私は、あえて自分の立場・出自というものを否定せずに、向き合える時に向き合える人々や事柄に向き合いたい、そんな気持ちでいます。知らず知らずに染まってきたイデオロギーだとか支配被支配の力学だとか、そういう古い因習を「自然に」脱ぎ捨てたい、という思いがあるのかもしれません。

乗松様のピース・フィロソフィーのお仕事への尊敬の念が、ますます高まったことを申し添えて、講演会へ参加させていただいた、私からつたない感想とさせていただきます。本当に有意義でした。関係の皆様にもよろしくお伝えください。どうもありがとうございました。

(以上)

Tさんは朝鮮半島について「目をつぶっていても差し支えない環境」に身を置いてきたと思いつつも、何かそれではいけないという気持ちになってこの講座に参加しました。それは、Tさんによると、お父さんが植民地支配下の朝鮮(京城)生まれであったことと、家族から聞きたかったけれど聞けなかった朝鮮の生活における「不自然な空白部分」を聞きたいという気持ちが残っていたということでした。お父さんが歌った、朝鮮の子どもたちを揶揄するような歌、祖母が朝鮮のお手伝いさんについて記憶している言葉など、限定的とはいえ、Tさんの記憶には、Tさんの言葉で言う「帝国主義的生活」の断片があったように見えます。高校のときの韓国名の同級生、大学で、通名を使っている人がいることへの気付き・・・自分の身の回りに、自分のアイデンティティを隠して生きている人たちがいることへの気づき。

ひとつひとつ、私は自分に重ね合わせて読んでいました。私も日本で生まれ育った若い頃、身の回りに、ルーツは日本ではないのかもしれない名前の友人たちはいて、しかし特にその友人たちのバックグラウンドについてもっと知りたいとまでは思いませんでした。朝鮮大学校から近いところに住んでおり、電車に韓服の学生さんを見かけることがあったけれどもそれも風景の一部のような存在でした。私の父も中国の日本租界(植民地)で生まれ、「戦犯企業」に勤めた人間で、両親から受け取った、在日朝鮮人の人々のイメージの中には克服しなければいけないものがありました。想い出すのも、認めるのも難しい。無知で無関心だった自分は、カナダに定住するようになってはじめて在日(カナダに定住した人は「元」在日と言ったほうがいいのかもしれませんが)の友人が自然に一人、二人、とできました。そして、今回の講座で学んだことのように、知らなかったことを一つ一つ学びながら、無知だった自分に愕然としながら歩んできたような気がします。日本からこんなに近い朝鮮半島も、カナダに移住した後に広大な太平洋を超えて訪ねることになりました。

Tさん、これからも共に学ぶ機会があることを願っています。聡子