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9.01.2021

李里花さんの講演「朝鮮籍とは何か トランスナショナルの視点から」に寄せられたTさんの感想

 8月28日にカナダ9条の会主催・ピース・フィロソフィー・センター協力で開催されたオンライン講演


李里花さんを迎えて「朝鮮籍とは何か トランスナショナルの視点から」


 

 に参加してくれたTさんが丁寧な感想を寄せてくれました。Tさんは、このイベントで司会をつとめたピース・フィロソフィー・センター代表の乗松聡子の大学時代の後輩で、現在は大学教員です。Tさんの許可をもらい、ここに共有します。

以下、Tさんの感想:

私は、極めて「右より」の思想の家庭に育ちました。そして、幸か不幸か、自分の生活に朝鮮半島を近づける必要もない、目をつぶっていても差し支えない環境に(たまたま)身を置いてきました。けれど、やはりそれではいけない、何か知りたいと思う気持ちが強くあって、この度こちらの講演会が聴けそうだったので、純粋な好奇心から参加をしました。

参加なさっている方々の多彩な顔ぶれ、カナダ9条の会の熱心な方々、そして李里花先生を含めた、国と国とのいわゆる「間(あいだ)」におかれてしまっている、韓国籍や朝鮮籍の複雑な状況を生き抜かざるを得ない皆様の、和やかで、しかし怒りを秘めた、そして強い姿に感動を覚えました。こうした人々を一つにまとめている乗松様や周囲の方々の活動はすごいなと、初めて目の当たりにして感じました。

なぜこの話題に興味があったのか、という個人的な話を少し紹介させてください。私の父は1927年に今のソウルである京城で生まれました。そもそも祖父が電機関係の会社で、外地に出向していたからです。父は自分が韓国生まれであるということを、自分から子どもたちに向かって話すことは一度もありませんでした。その事実がすごく嫌だったようなのは、そぶりで分かりました。けれど、私が聞きたがると、朝鮮の子どもたちを揶揄するザレ歌のようなものを歌ってくれることがたまにありました。祖母は、京城で韓国のお手伝いさんが来てくれていた話をしてくれ、韓国語の「もしもし」は「ヨボセヨ」だというのがお気に入りの話題でしたが、生活の話は一切しませんでした。結局、父は体が弱くて、8歳か9歳ぐらいで、祖母に連れられて日本に戻ってきたとのこと。祖父はその後もずっと京城暮らしでしたが、終戦近くなって朝鮮半島からフィリピンに出征し、帰らぬ人となりました。

私自身記憶はないし、謎が多いけれど、朝鮮半島というのは、本当は自分のルーツにとって大事な場所なんじゃないか、そう私が心に刻むようになったのは、幼少時に聞きかじったそんな記憶に結びついているからだと思います。多分、言葉にしてもらえなかった不自然な空白部分を、なんとか補いたいと言う気持ちがあるのでしょう。

高校時代には、韓国名を名乗っている、実家が焼き肉屋さんの同級生がいました。それが初めての「韓国人の友達」だと思っていましたが、大学に入って初めて、「日本名」で生活している朝鮮半島の文化を持っている方が多くいることを知り、驚きました。要するに、まったく無知蒙昧だったわけですが、本当に最近になって、自分にとても身近なところにも、マイノリティとしてのアイデンティティを秘めつつ、しかもそれを決して声にすることのない人たちがいることを、やっと現実の問題として実感するようになりました。

本講演会のお話を聞きながら、そういう身近な人たちの顔が目に浮かび、今まで知らなかった世界が広がっていくのを感じました。私自身は別に韓流ファンでもないし韓国語ができるわけでもありません。だから李里花先生や皆様の具体的なお話を、本当の意味で「実感」したわけではないのです。けれど、自分の生活の身近な場所にいる、例えば上司や部下や同僚といった人々も、ひょっとすると朝鮮半島とつながりを持ち、私の想像を絶するような世界に住んでいるのかもしれない、また彼らは現在困った立場にある人々を人知れず助ける立場に立っている人なのかもしれない—そんな想像が広がりました。そしてその想像は、なぜか自分をほっとさせてくれるのです。それは自己満足に過ぎないし、ましてや自分の祖先が送っていた帝国主義的な生活を正当化するものではないとは知っていますが。今の私は、あえて自分の立場・出自というものを否定せずに、向き合える時に向き合える人々や事柄に向き合いたい、そんな気持ちでいます。知らず知らずに染まってきたイデオロギーだとか支配被支配の力学だとか、そういう古い因習を「自然に」脱ぎ捨てたい、という思いがあるのかもしれません。

乗松様のピース・フィロソフィーのお仕事への尊敬の念が、ますます高まったことを申し添えて、講演会へ参加させていただいた、私からつたない感想とさせていただきます。本当に有意義でした。関係の皆様にもよろしくお伝えください。どうもありがとうございました。

(以上)

Tさんは朝鮮半島について「目をつぶっていても差し支えない環境」に身を置いてきたと思いつつも、何かそれではいけないという気持ちになってこの講座に参加しました。それは、Tさんによると、お父さんが植民地支配下の朝鮮(京城)生まれであったことと、家族から聞きたかったけれど聞けなかった朝鮮の生活における「不自然な空白部分」を聞きたいという気持ちが残っていたということでした。お父さんが歌った、朝鮮の子どもたちを揶揄するような歌、祖母が朝鮮のお手伝いさんについて記憶している言葉など、限定的とはいえ、Tさんの記憶には、Tさんの言葉で言う「帝国主義的生活」の断片があったように見えます。高校のときの韓国名の同級生、大学で、通名を使っている人がいることへの気付き・・・自分の身の回りに、自分のアイデンティティを隠して生きている人たちがいることへの気づき。

ひとつひとつ、私は自分に重ね合わせて読んでいました。私も日本で生まれ育った若い頃、身の回りに、ルーツは日本ではないのかもしれない名前の友人たちはいて、しかし特にその友人たちのバックグラウンドについてもっと知りたいとまでは思いませんでした。朝鮮大学校から近いところに住んでおり、電車に韓服の学生さんを見かけることがあったけれどもそれも風景の一部のような存在でした。私の父も中国の日本租界(植民地)で生まれ、「戦犯企業」に勤めた人間で、両親から受け取った、在日朝鮮人の人々のイメージの中には克服しなければいけないものがありました。想い出すのも、認めるのも難しい。無知で無関心だった自分は、カナダに定住するようになってはじめて在日(カナダに定住した人は「元」在日と言ったほうがいいのかもしれませんが)の友人が自然に一人、二人、とできました。そして、今回の講座で学んだことのように、知らなかったことを一つ一つ学びながら、無知だった自分に愕然としながら歩んできたような気がします。日本からこんなに近い朝鮮半島も、カナダに移住した後に広大な太平洋を超えて訪ねることになりました。

Tさん、これからも共に学ぶ機会があることを願っています。聡子


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