1960−70年代にミルグラム博士が行った実験(注1)は人々にショックを与えた。これは記憶と学習をテストする模擬実験で、実験リーダー(権威)は被試験者に「君たちは教師であり、別室に居る生徒にクイズを出し、間違った答えがあれば、学習を助けるために電気ショックを与えよ」と伝える。ショックは最初15ボルトだが、間違った回答がある度に少しずつボルトを増して行く。最終的には450ボルト(危険と表示される)まで上げて行くことができる。生徒はショックを受ける度にうなり声を発したり、悲鳴を上げたり、勘弁してくれとかの声をあげる(勿論演技であり、被試験者には声しか聞こえない)。参加者(イエールの学生、普通市民)の3分の2の人々は、この状況下で、途中でショックを与えるのを拒否せず、最高ボルトまで上げるのに躊躇しなかった。アメリカ以外の人々についても、女性についても男性と同程度の結果が得られたと報告された。ここでは、被験者は、実験リーダーはショックの効果を十分に検討しつくしているのだろうから、言われるままにすればよいのだと、思い込むのであろう。苦痛の悲鳴に反応するはずの良心が抑制され、それに疑義を差し挟むことはあまり意識に登らない。
アメリカでの911事件—いわゆる同時多発テロ。多くのアメリカ市民は、自分達の政府(権威者)の発表した事件の内容/原因の報告を信じ込んでしまっている。かなり明白な疑問点が多々提出されているのにも拘らず、権威がすでに発表したことを信じるが故の市民達の無関心をいいことに、公式発表以上の解明の努力は権威の側では行っていない。疑問を差し挟む側は少数派で、一般には無視される傾向にある。
もっと長い間の人類の歴史を見れば、神、とくに一神教の神という権威があり、その権威が書いたと称される聖典の言葉が、人々の考えや行動を律してきた。これは、時々に変化する政府などの権威よりも、もっと堅固である。この場合には、信じる人の行動は、良心に反するというようなことはない。自分の信じていることこそが正しいと信じているのだから。宗教に影響された長い歴史の中でも、ある人々は疑問を抱き、自分の宗教を批判的に見ようとしてきたし、現在そのような人が増えているが、一方聖典や神の権威を信じ込んでいる人もまだかなりおり、そのような聖典に沿った行き方を、他の多くの人々(政治や経済、司法面にまで)に植え付けようと努力する人々もいる。このような傾向は現在、アメリカ政治の場で顕著である。いわゆる原理主義的・キリスト教右派が、聖典に反すると信じる「進化論」「妊娠中絶」とか「同性愛」などなどを材料にして政治に関与している。
いわゆる「公」なるものの権威は、もちろん十分に正当な根拠がある場合が多いはずだが、近年は、そういう仮定が成り立たない例が多くなってきたように見受けられる。それは「公器」と看做されてきた「新聞・ラジオ・テレビ」などの主要メデイアが、特定集団(政府、企業など)・個人の利益を代表するようになり、「公器」としての正確な報道をないがしろにしがちになってきていることによる。ところが、多くの市民はまだ「公器」というものの権威を信じている。そこで、特定個人や集団はいわゆる(経済)エリートの影響の下、デマ・ウソ情報をラジオ・テレビその他の「公器」を通じて流す。とんでもないデマなのにも拘らず、多くの(権威を信じ易い)市民が信じこんでしまうという現象が今アメリカで蔓延している。
今回の中間選挙で使われた(とんでも)デマをいくつかを下に掲げる。このようなデマを大量のカネを使って流し、それにだまされた市民の多くが、一度は放棄した共和党をまたまた復活させてしまった。これからのアメリカの政治・社会は悪化の一途を辿るであろう。(といっても、民主党が共和党より一段とまともかと言えば、残念ながらあまり差はない)デマの多くは、オバマ氏を嫌悪する下心に迎合したもので、しかもそれにより自分達が御し易い共和党を持ち上げる効果がある。すなわち、オバマは「イスラム教徒」、「社会主義者」、「アメリカ生まれの証拠は不明」、「税を上げた、また上げようとしている」(実際は引き下げたにもかかわらず)、「(彼の作り上げた)医療保険制度では人々の「死」も政府の管理下に置かれる」などなど。また、もっと一般的なデマ(というより言っている本人の無思慮による)には、例えば,「2酸化炭素は、生物も排出する自然物なのだから、問題はない」とか「企業を規制するのはいかなる場合でも、社会主義政策だ」など。そして各州の国会議員選挙では、対立する民主党候補に関して、あること無いことデマを流した。たとえ反論が発せられようと、最初にそして執拗に流されるデマは人々の心に定着してしまう 。こうしたことが今回の選挙では、カネの力をかりて広範に執拗に行われた。大方のアメリカ市民の「騙されやすさ」を利用した、鈍民化である。このような状態では、民主主義は形骸化してしまう。
人類のうちの多くが、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、その他の宗教を子供のころから植え付けられていて、そうした権威に追従することをよしとする教育を受けて来たことが関係しているであろうか。しかも、現在の複雑で,錯綜し、混沌とした世の中で、十分な情報を収拾し、深く考えて真相を見極めようとするような努力は、面倒くさいので、宗教教典などの権威に従うほうが単純で手っ取り早い。多くの人は表面的にものごとを見、深く考える努力を惜しむ傾向が強いようである。
このような多くの人の性向を利用し、一部のエリート達は、自分達に都合のよいように市民を操り、形骸化してしまった民主主義制度を活用して、エリート支配の世界を構築しつつあるようである。アメリカに限らない。1930年代からのナチ政権ではデマを活用してドイツ国民をあのような非人間的な方向に誘導した。日本・中国でも、歴史を通じて、権威者達は、これと同様な仕方で支配しようとしてきたことも事実である。それは「民は由らしむべし、知らしむべからず」なる「論語」からの引用が、ことわざの如くに常用されてきたことが物語っている。
これからの人類は、これまでの常識や支配する側の言い分など、十分に懐疑的に、検討しなおす必要がある。このままでは、人類の生存は覚束ない。
(注1:http://ja.wikipedia.org/wiki/ミルグラム実験)
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