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9.28.2021

人類の当面する基本問題(10) 成長>収縮>定常経済へ(日刊ベリタ2011.01.12)

 

人類は、現在、エコフットプリントの概念でいうと、地球の可能収容力(量)をすでに20%程過剰消費しているそうである。これは人類総体のことで、国・個人の消費には大きな差がある。全人口の80%が途上国におり、それらが、平均して可能収容力の50%の消費をしていると仮定すると、残り20%の先進国の人々は、平均して、可能収容力の400%を消費していることになる。全世界の人々が、地球の可能収容力内で、似たような物質レベルで生活できるようにするには、先進国の人々は消費量を、少なくとも現在の1/4程度まで落とす必要がある。(これらの計算は大雑把なもので、正確性は保障のかぎりではない)

すなわち持続可能な文明を築くには、先進国の物質消費を現在よりも大幅に低落させ、途上国のそれはかなり底上げする必要がある。(勿論、このシリーズでは、全世界の人々全てが、かなりの程度、似たような生活レベルを享受する権利を有するという前提があるし、その前提下での持続可能性を問題にしている)。すなわち、全世界レベルでは、人類の消費は、現在の先進国レベルよりかなり低いレベルで維持されなければならない。

現在の基本的考え方は、先進国であれ、途上国であれ、「成長経済」一本槍である。経済成長=雇用拡大=個人の幸福度増大という図式だそうである。現実には、しかし、雇用も個人の福祉も増大せずに、経済の成長分は、企業家・資本家の懐に入ってしまうようになっている。この傾向はとくにここ30年ほどの間に顕著になってきた(イギリではサッチャー、アメリカではレーガン政権の新自由主義採用から)。このような状態が持続するためには、人類の大部分が生存ぎりぎりの奴隷状態で,経済エリートに奉仕する体系にならざるをえない。現在のオバマ政権もこの政策を継承している。そしてそのためには、おそらく、現在の大人口は必要ないであろうー少数のエリートを支えるだけなのだから。このような人類の状態(人口削減)の実現に向けて意図的にか,無意識のうちにか、ある種の人達が動いている可能性はある。

しかし、このような経済体系(成長経済+格差拡大)は自己矛盾している。経済成長しても、それを消費してくれる筈の人間が、消費できない状態に陥ってしまっているからである。しかし、そうしたエリートの数が微小(現在では、全人口の0.1から1%ほど)ならば、それほどの経済成長も必要ない。それでも彼らエリートの豊かな生活は維持できるであろう。すなわち、少数のエリートだけの持続社会は、現在の経済機構で可能かもしれない(他の大多数は奴隷的状態として)。実は、多くの地域で、このような経済体制が近代以前は主流であったのである。日本の平安朝までのエリート(貴族)社会は,農奴の上に成り立っていたし、ギリシャ・ローマ社会も奴隷に支えられていた。

現在の先進国対途上国の関係は、この古き時代の貴族対農奴という関係に対応しているし、現在出来しつつある先進国内の経済格差も同様である。一部の人間のみが奢侈な生活を持続しているのであって、人類の大多数は生きるのに呻吟している。しかし、人類全体を現在の先進国ほどの物質消費を行うレベルまで引き上げることは、実現不可能である。忽ち地球の資源を枯渇させてしまう。したがって、人類全体(大部分)がまともな生活をかなり長期にわたって出来る、持続可能な文明を実現するためには、「経済成長」は止めて、「収縮経済」からやがては、現在と比較するとかなり「低レベルの定常経済」に持って行かなければならない。これは主として,先進国や、かなりのレベルに達している発展途上国においてのことであるが。

これが最も困難な問題である。消費生活にどっぷり浸かってしまっている人達に、そのような奢侈な生活はするべきではないということを納得させることはできないのかもしれない。それは、経済上層部の人達(中国などの途上国のそれを含めて)ばかりでなく、現在の先進国の大部分の市民にも当てはまるであろう。経済が破綻して、少数を除き、大部分が否応無しに消費を減らすことになるまで、消費文明は解消しないのかもしれない。ただし、現在の先進国における最低限の生活ですら、例えば、江戸時代の富裕階級と比較しても物資的には豊ではあるし、数世代前の自分達の祖先達と比較してもずっと良いのではなかろうか。

そこで、どうしたら、現状から、「収縮経済」>(低レベル)「定常経済」に移行できるかをちょっと考えてみたい。ここで述べるのは単なる思いつきにすぎない。多くの人が、この問題を検討するべきであろう。いわゆる経済学者にばかりに任せてはおけない。むしろ大部分の経済学者ほど、視野の狭い人々はいないようである。

(1)まずこのような経済体制の変換が必要であるということの認識が、大多数の人々の間で常識になる必要がある。しかし多くの人々(先進国)にとっては実感のわかないものであろう。メデアや教育を通して、人々が納得するようにならなければならない。

(2)これからは、今までのように「使い捨て」とか「贅沢」「奢侈」といったことは、人類の道徳に反することであるという意識も育てる必要があろう。「モノやカネを多く持つこと=幸福」という観念を捨てること。幸福とはもっと別なところにあるはずだという観念も。

(3)消費が少なくなれば、今までのような産業構造では、雇用が確保されなくなる。そのためには、少ない量の生産で、雇用を増やすような施策を工夫する必要がある。それは、現在のオートメ化、機械化を極力少なくし、必須な場合を除いて、ハイテク依存を少なくする。そんなことをやっていては、国際的競争に勝てないということになるであろう。「収縮経済」への過程では、弱肉強食的競争は放棄し、経済の非グローバル化が進行していなければならない。

(4)いずれにしても、経済活動は、一般に低下し、そのため、出回る「カネ」の量も減少するであろう。(カネによって得られる)モノは減っても、ある程度の生活は維持できるが、健康維持、高齢者介護その他のサービスまで、カネが回らなくなるであろう。サービスは、「カネ」の授受によらない方法(サービスの交換制度)でも提供されるようにしなければならない。

(5)このような経済体系では、経済そのものを根本的に考え直されなければならない。経済は、人々の生活を支援する仕組みー必要なモノを生産、雇用機会提供、サービス提供などーであって、利潤はその目的ではないという概念が確立されなければならない。そしてそのためには、利潤以外のものに、インセンテヴを見いだすようにしなければならない。こんなことは、人類に可能だろうか。

 

言うは易く、行うは難しの典型で、上のようなことをどう実現して行くかは難しい。しかし、人類が長く生き残るためには、なんとか実現していかねばならない。みなさんで考えてほしい。(未来の持続可能な文明の一例は「アメリカ文明の終焉から持続可能な文明へ」で論じた。下のサイトから無料でダウンロードして参照していただきたい。

http://www.e-bookland.net/gateway_a/details.aspx?bookid=EBLS10071200)

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