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9.30.2021

人類の当面する基本問題(12) 科学・技術への信仰と悪用(日刊ベリタ2011.02.05/2011.02.09)

西洋では長い間、宗教が生活を律してきて(この点は、西洋に限らない)、ルネッサンス頃から発達し始めた科学的ものの考え方は宗教としばしば衝突し、初期には宗教が科学を抑圧していた(ガリレオなどの例)。しかし、西洋の宗教的世界観、すなわち唯一の神が支配する世界であり、したがってその神の規定する規律が世界の根底にあり、それを探求、理解しようとする意識が、西欧的科学を促したともいえる。これは宗教の桎梏を乗り越えると、科学への強力な支えとなった。特に物理的現象の理解は、いわば神の律法(宗教原理主義的ドグマという意味ではない)を解明しようとする努力であり、現在でも最終的/総合的な統一理論(=神か)が主要な目的のようである。そして物理学が西欧的科学の基本形となり、それに付随して化学が発達した。これらの学問の扱う現象は、少数の要素とそれらの間に緊密な関係(数式で表現できる程度に)があるために、法則性などを確立しやすいし、その法則性の確立こそが「科学」と看做される。

生物(単細胞生物から人間を含む多細胞生物まで)、人体生理現象、生態系、地球(気象も含めて)などの自然現象もやがては科学の対象となり、それぞれの学問分野を形成した。しかし、これらの現象は、介入する要素の数も多く、それらの間の関係も、物理・化学現象ほど明瞭・緊密ではないので、十分な解明は困難である。しかし、20世紀後半までには、DNAの解明や、様々な測定機器の発達で、かなりの進歩を見てきた。最近10年ほどは、これらの上に、高速コンピュータ−を用いるシミュレーションの進歩が加わった。そして、西欧的科学の伝統からして、特定要素(例えば、DNA)にフォーカスして全てを説明しようとしたり、シミュレーションへの過度の信頼などの傾向も見られる。すなわち現実的には、存在する様々な要素の多くを十分に取り入れることは難しいので、そのうちの重要と思われる要素を取り上げてそれによって現象を理解しようと試みるわけである。このようなやり方(の不十分さ)を意識して、現象を追求し、それから得られる理論なり結論の限界を十分に弁えているうちは良いのだが、限界を忘れて、自分達の方法が十分に現象を理解できている筈だと考えて、議論をすすめ、さらにそれを展開していくという傾向が往々にして見られる。

これがいわゆる「社会科学」となるとさらに問題は複雑になる。経済学、政治学、社会学それぞれが、(物理)科学の成功にならい、「科学」たらんと欲し、そして、「科学」を標榜しようとする。そのために、例えば、物理にならって、経済現象を少数の要素と、その要素の性格の規定に基づいて理論を構成しようと努力する。例えば、個性の異なる、様々な価値観をもつ様々なしかも多数の人間を単一の性格を持つ要素(「経済的人間」)として経済現象を説明・理解しようとし、しかもそれに基づいて経済政策を策定したりする。こんなことはとんでもない科学的方法の間違った適用である。 おそらく非常に狭い範囲内の特定の社会現象では、ある程度の科学的方法論は適用できるであろうが、大方の社会・経済・政治現象に科学方法論を適用することは困難であり、したがって、これらを(物理)科学と同様な仕方で解明するということは厳密には不可能であり、科学的理論であると自称するものは、疑ってみるべきである。社会科学者にこのことは特にお願いしたい。

それぞれの科学(社会科学も含めて)は、その対象がどのようにして現象しているかを理解しようとする人類の努力であり、それ自身は、人類の進化(進歩)の過程で望ましい現象である。しかし、科学というもの(それから得られる結論や理論)は、必ずしも完全無欠なものではないし、特に複雑な系を扱う医学、気象学や社会科学のそれは、その不完全性を意識して考慮する必要がある。

人類は、このようにして得られた知識を、現実問題に適用して自分達の生き方をより良くしようという意識を持っている。それが、技術(それを追求するのが学問としては工学、医学では治療が技術に相当)であり、社会科学では政策・施策(自然科学に対応して、社会工学という概念・追求もある)である。

日本の近代(江戸期)でもそうであったし、西欧の産業革命でもそうであったが、先行したのは、試行錯誤に基づく技術であった。いわゆる医学もしかり。技術は、初期には、科学知識の応用ではなく、むしろこうして(試行錯誤により)発明された、例えば蒸気機関などが、近代的科学の発達を促したのである。20世紀になると、科学が格段に進歩したおかげで、科学が技術を引っ張って行くのが通常にはなったが。

包含される努力や知識の活用などの点において、技術(電子機器などを作り出す)を生み出す努力(工学)そのものは、科学と本質的にはあまり違わない。しかし、技術は、社会の中(製造工場、核発電など)で活用されるのであり、その社会への影響は技術開発の過程で十分に考慮されるべきものであるにも拘らず、往々にして軽視されがちである。

現在人類に深甚なる影響を与えている技術(工学)として、原子力工学と遺伝子工学を例としてあげる。技術そのもの、すなわちそれが他へ与えるであろう影響を無視するならば、理論的には素晴らしい技術である。原子力発電は、温室効果ガスである2酸化炭素を排出しないし、少量のウランから多大のエネルギーを生産することは事実である。しかしウランそのもの(とそれに付随する様々な核種)の発する放射線はウラン鉱発掘から、使い古した(劣化)ウランまでどこまでも付いて回る。ウランはどのような形であれ、数十億年にわたって放射能を出し続ける。そして今のところ、そして将来的にも、放射能を完全に押さえ込み、人間を始め、あらゆる生命への影響をゼロにすることはむずかしい。ウランは実は、かなりの量がウラン鉱石として地球上に存在することは事実であるが、ウラン鉱として特定の場所に固定されている限りは、その影響を最少に止めることはできる。放射能の悪影響と経済的不利益(原子力発電は全てを考慮すれば経済的ではない)は、利点をカバーできない。しかも放射能の影響(人命やその他の生命に対して)は経済的に評価できるものではない。また技術的にも、その安全性は確保できるとは言いがたい。したがって、原子力発電は、過渡的に使わざるを得ないとしても、なるべく早急に廃止するのが望ましい。これ以上の放射性物質の拡散は是が非でも避けなければならない。そうでなければ、地球全体が放射能で汚染されて、生命が存在できなくなるかもしれない。

遺伝子工学も、初期の動機には正当なものがあったのであろう。それは遺伝子の性質、その化学物質性とその人工による変換を巧みに使って、人類の役に立つものを作ろうとした。また,特定の人間の中の不都合な遺伝子を変換するなり、差し替えたりすることによってその人の健康を改善するなどの効果を狙ったりしている。例えば、豆科の植物は、窒素肥料を自作する。それは、共生する根粒バクテリアに空気中の窒素を固定する(アンモニアに変える)酵素があり、それが窒素肥料を供給するからである。この酵素の遺伝子を他の植物の遺伝子に組み込むことによって、その植物が自分に必要なアンモニアを自分で作れるようになるはず。そうすれば、食料生産への肥料の要求度がかなり軽減されるだろう。というわけで、このような遺伝子を関係のない植物の遺伝子に組み込むことは有意義だろう。というような考え方があり得る。この遺伝子工作そのものははまだ実現してはいないが。これは遺伝子操作(GM)による植物の改良という良い意図(人間にとって好都合で、植物にとってよいかどうかはわからない)から出たものではある。

しかし、現在実用化されているGMによる植物(大豆、トウモロコシ、綿などなど)は、植物の改良といっても、雑草駆除に都合がよいとか、ある種の害虫除けの毒物を生産するというもので、様々な問題を抱えている。先ず広範に使える除草剤(ラウンドアップ)に耐性のある遺伝子を組み込んだ大豆、トウモロコシが現在多くの国で広範に栽培されるようになった。これはアメリカの特定企業が開発し、多くの国に押し付けきた(最近のウィキリークで暴露された)もので、ラウンドアップを撒いておけば、他の植物(雑草)は生えないので、栽培が簡単というわけである。これには、基本的に二つの問題がある。一つは、自然はそう簡単に引っ込んではいないこと。この除草剤に耐性を持つ植物を自然が作りだす。現実には、ラウンドアップに耐性のある雑草が発生し始め、除草剤の使用量が最初の目論みよりも増え、経済性が減少するとともに、雑草の対薬剤性が増して、薬では処理できずに、物理的に引き抜くしかなくなってきているうえに、抜いても抜いてもすぐ生えてくるようなスーパー雑草が出来てきている。二つ目の問題は、ラウンドアップ製剤の毒性が様々な形で環境や人の健康に影響する。ラウンドアップを空中散布するため、働く農民が直接それを吸入する可能性が高く、またこれが、食料に供される製品に混在してしまうことで、それを食べた人の健康に影響する。この種の大豆を広範に栽培している(させられてしまった)アルゼンチンやブラジルの農民や市民に、様々な深刻な健康障害がすでに広範に発生している。生物(植物・動物その他)を人為的に操作し、それを技術的レベルで活用しようとする場合、その社会・環境・生態系への影響を広く考慮する必要がある。生態系への影響には、人為的に植え付けられた遺伝子が、その植物から他の正常の生物へ様々な経路を通して(自然に)移行することによって他生物がいわば汚染されてしまうことも含む。と同時に、自然は、そうした人為的操作に対抗する手段をかなり包含していることも考慮に入れておく必要がある。

以上二つの例では、こうした技術を活用して利潤をあげることに主眼点がある。原発建設は、結果的には操業上様々な問題を持ち、不経済ではあるにしても、建設によって十分に利益を上げる企業がある。企業(法人)は、技術の利用がもたらす悪影響(人命をも奪いかねない)を過小評価し、利潤を優先しているし、そのようなことが出来るように社会・政治・経済を牛耳っている。このような技術の利用は人類にとって有益ではない。

なおもう一つ付け加えると、「原発」は、武器として開発された「原子核爆弾」の技術の延長である。多くの技術は最初戦争への使用目的のために開発されたものが、民間用にも使用可能性が見つけられて開発されたものである。例えば、戦争遂行に必要な通信情報を暗号化し、相手方はそれを解読する必要があり、そこで開発された技術がやがてはコンピュータ−、そして現在のIT技術へと発展した。第2次世界大戦中、戦士は塹壕中などでの不衛生な状態による病死が多かった(実際第1次大戦では銃弾による死亡より病死の方が多かった)のだが、DDT(殺虫剤)とペニシリンの発明で、この状態はかなり改善された。これらの薬品は、戦争に付随して(意図的ではなかったが)開発されたとしてよい。これらはすべて、後に問題を起こすことになる。原発の問題はすでに述べたが、DDTはやがて大規模な環境問題を引き起こして、現在ではあらかた禁止され、ペニシリンその他の抗生物質には、耐性菌の発生が問題化している。

人類が抱える様々な問題を技術的に解決してほしいという人類の願望は強い。願望が強いばかりでなく、多くの問題は技術的に解決できるはずだという、技術への信仰が人々に強い。開発に携わる科学・技術者も、自分達のやることを押し進めることに自分達の存在意義を見いだして、積極的に参加する。それを開発することによって利益を得る企業がそうした技術開発を強力に押し進めようとする。経済の新自由主義が蔓延している現在では、こうした技術開発が、人命とか社会福祉増大を犠牲にしてまで、利益を目ざして強烈に押し進められることが多い。このような開発には、持続可能性の追求、社会・環境への影響などが考慮されることは殆どなく、場当たり的、対症療法的なアプローチが大部分である。

最近注目されている技術の一つは、いわゆる地球工学(Geoengineering)である。地球という環境そのものを、人間にとって都合のよいように人為的に変えようというものである。地球温暖化を緩和するために地球環境を操作してみようという試みが現在、提案され、試みられている。空気中の2酸化炭素を減らす技術には様々な提案があるが、その一つに、海洋に鉄化合物をバラまこうというものがある。海洋の植物生育(プランクトンなど)が、現在の海洋では十分に行われていない。それは、その生育に必要な鉄が、海洋には不足していて、それがネックになっているからである。だから、鉄化合物をバラまくことによって、植物プランクトンの生育を促進し、そしてそれが光合成で、2酸化炭素を消費してくれるだろうという期待である。まだ具体化段階までいっていないが、鉄化合物の性質を考えれば、こんなことはうまくいかないだろうと予想されるし、うまく行くと仮定しても、それが海洋の生態系に甚大な影響を与えかねないことも考慮するべきである。

大気の温度そのものを下げてやろうという試みもある。空気中に長く滞留するような微粉末をまき散らし、それが太陽光を反射して、宇宙空間にはじき出すことによって、太陽光の地球への到達量を減らす。いわば人工の雲を作り出そうというわけである。 これはいわゆるケムトレール(Chemtrail)がそれだそうで、すでにかなり広範に試みられているといわれている。

雨をもたらす方法は、すでにかなり試されてきたが、主として銀塩などの微粒子をばらまき、それが水を凝縮させるというやり方である。今試されているのは、強力な電波を上空に向けて発し、空中にイオンを作る。それが、水滴の核になって雲を発生させ、雨をもたらすというものだそうである。広く報道されていないが、スイスのある会社が、ドバイの首長から持ち掛けられて、そのような実験施設をドバイに作り、昨年6回にわたって、あの砂漠の国に雨を降らせたのだそうである。アラスカにある米軍施設(HAARP)は強力な電波発信装置で、大気圏の電離状態、オーロラ発生などを研究していることになっているが、地球工学の一端を担う研究を行っているとみられている。また、これが発生する大量のエネルギーが、逆に北極圏の急激な温暖化(氷原の減少)に関係しているかも知れないという意見もあるようである。

地球工学は、人間が自然現象・自然環境を自分の思うままに操ろうとする試みである。しかし自然についての現人類の知識は限られているし、地球が45億年をかけて築き上げ、それに生物が約30億年をかけて適応してきた自然環境を人為で変えようとするのは、十分な検討を要する。おそらく十分な検討によっても見逃すことは多々あるものと覚悟しなければならない。人知はまだまだたかが知れているという基本的な認識・謙虚さが必要であろう。

人間の健康への様々な人為的介入—医療・薬剤・ワクチンなどーについては別の機会に。


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