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9.27.2021

人類の当面する基本問題(9) 自己抑制精神の欠如(日刊ベリタ2011.01.7)

以上何回かにわたって指摘してきた現人類の問題は、結局のところ、人間個人の「物質欲」「金銭欲」、その他の欲望の追求に主として起因している。何かを獲得(金銭、名誉、地位など)する努力は、多くの文化で、美徳として賞賛されている。「求めよ、さらば与えられん」とキリスト教聖書にもある。アメリカの教育には、生徒・学生が「成功」することを目ざし、それを達成できるように指導することこそが、望ましい教育だという観念がある。もちろん、「成功」といっても、様々な場合があるし、人生になんらかの目的や意義を見いだし、達成する努力は必要であろう。しかし、その成功とはどのような状態であるべきなのか、すなわち、モノを獲得するとして、達成(成功)とはどのような状態なのか。無限に「求め続ける」ことが良いことなのか。このようなことは、多くの場合、意識に登っていない。ただ、何かを獲得すると,さらにもっと欲しくなるという傾向が多くの人にあるようである。

さてこのような人類の状態はいつからどのようにして、発生したのだろう。採集・漁猟に頼って生きていた時代は、生存のための最低条件を満たすのに精一杯で、余分なモノを求める余裕はなかった。しかし、人類は狩猟時代から、食欲を満たす必要以上のモノを殺傷した経緯もある。そのために、マンモスをはじめ、大きなほ乳類を絶滅させたらしい。

農業や畜産業を発明し、生きる最低限以上のモノを獲得できるようになって、始めて余分なモノを欲求する余裕ができてきたのであろう。そしてこのような欲求は、人間本来のものなのだろうか。 例えば、ライオンは、満腹でありさえすれば、敢えて餌を求めようとはしない。空腹とか生殖などの必要生理を満たす以外の欲求は、人間に近い類人猿は別にすると、普通の動物にはないのであろう。ただし、季節の変化による食物の減少を予想して蓄える動物はかなりいる。しかし、生理現象以上のものではない。

人間は、その生理上、自然の提供するものだけでは生存が難しい。例えば、衣服や住処を必要とする状況下にも進出したため、それらのモノを必要とするようになった。普通の動植物は不利な状況下へは移動しない。というより、不利な条件下では消滅するのみである。人間は、その頭脳故に、単なる生存以上のことに関心を抱き、新たな可能性を求めて地球上の様々な地域に進出した。

人間集団は,単なる群れから進化して,社会を形成するようになった。比較的小集団で、集団形成に共同作業が主要要因であるような場合には、集団内の人間は比較的平等なのであろうが、集団が大きくなり、集団内に様々な異なった機能が必要になると、階層的構造ができてくる。これが社会である。そして、異なった階層人には、生活態度、獲得できる資産などに差が生じる。そして、この違いは、各層の人々に、欲求(地位や物質への)を生み出した。これは、生理的必要以上の欲求であり、人間特有のものである。

古代インドですでにこのことに注意を払った人が仏陀である。仏陀は貴族階級の家に生まれたが、その奢侈な生き方を放棄して、人間の本質、生きることの意味などを追求した。その結果、人間の煩悩、業からの解脱を推奨した。その根本的な生き方は、自己抑制の精神といってよいであろう。または具体的には「 貪欲を放棄し、祖末な食事で生きることに満足せよ、あれこれ思い煩うな、質素な生き方をし、奢り高ぶるな」となる。

他の文明、中国・中近東・ヨーロッパなどではこうした自己抑制的考え方は意識されなかったようである。中国人には、奢侈への憧れが根強いし、中近東の遊牧民は、宝石など移動に差し支えない奢侈品を欲する。しかしながら、これらの傾向は、人口が少なく、物資供給が限られていた、産業革命以前では、地球規模の問題にはならなかった。

一方、日本の江戸時代は、鎖国という政策のため、日本人の生活は、他国とのモノの出入が殆どなく(ゼロではなかったが, 主として金属類の輸出)、限られた国土と太陽光というエネルギー源のみへの依存という点で、現在の地球の小規模なモデルを提供する。しかも人口はかなり多く、現在の地球全体の人口密度の2倍以上はあった。農業主体経済ではあったが、かなりの鉱工業(ほとんど手作業)も発達していた。江戸時代250年間ほど、このような状態で、十分文化的にも優れた社会を持続させた。それは、限られた物質・エネルギーを用いて、自己抑制の精神と自然との調和を主体とする生き方で可能であったようである( 落合:日刊ベリタ2008.12.01)。この点は、したがって現在の世界が持続可能な文明を築くにあたって参考になるものと考えられる。

産業革命によるエネルギー高依存・工業的大量生産が全てを変えてしまった。生産する側は、資本主義原理に基づき、生産したものから利潤を得なければならない。利潤を増大するためには、より多く作り、より多く売らなければならない。そこで、宣伝活動その他、あらゆる手段で人々の消費欲をかき立てた。「需要を喚起し、消費を促進する」。今回(2008年−)の経済危機を乗り越えるための方策にはこのスローガンが殆ど唯一の解決策として唱えられている。このように資本主義市場経済では、拡大(経済成長)のみが生き残りの原理だと考えられている。そして、人々により多く消費させることをあらゆる手段を用いて画策している。このような、大量消費文明では、「自己抑制」の精神は忘れられ、「悪」とさえ看做される。

モノにあふれた生活を経験した人々は、モノを減らし、質素に生きるという方向には、非常な抵抗(不安)を感じる。モノを大量に持つためには、不安定な経済生活をせざるをえない(クレジットカードの払いをどうしようかなどを思い煩うなど)事態になったとしても。自分の幸福とは何かを十分に考えず、資本の側からの消費奨励工作にどっぷり浸かってしまっていて、「モノを多く持つこと=幸福」という考え違いしていても気がつかない。こういう生き方を抜け出さないかぎり、人類に持続可能な文明はやって来ず、早晩資源枯渇・環境破壊などの自然からのしっぺ返しで人類文明は破滅という結果になりかねない。

なお、安原和雄氏は、この欄で、こうした問題を「仏教経済学」という視点で考察されておられるので、参考にされたい。


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