「利潤という利己的遺伝子」の放棄は可能か 地球と人類の存続のために
以下は、ちょうど10年前日刊ベリタ2007年4月12日に投稿したものである。
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200704121502314
R.Dawkinsが唱え始めた「利己的遺伝子」という概念がある。それは遺伝子というものは自己の再生産のみを追求する利己的なものであり、それによってすべての生物進化や多くの生物の挙動が説明されるというものである。これは生物の基本的性格である自己再生産が、自己の存在と継続にとって必須であることに基づいている。自己再生産がなければ、その生物は死に絶えてしまうからである。すなわち生き続ける生物は存在しなくなる。したがって、遺伝子は利己的にならざるをえない。もちろん遺伝子そのものが、意識的に利己的であるという意味ではない。 さて、R.Dawkinsは、生物的遺伝子の類似から、人間社会において受け継がれ、変形されていく素子をgeneに対して「meme」と命名した。この概念の社会進化への適応性の可否は種々議論されている。その議論に参加するのはこの小論の目的ではない。社会現象のなかには、memeと定義されてよいものは種々ある(例:倫理項目(善、悪その他))が、利潤(profit)なる概念をその一つとしてあげてもよいだろう。この概念をそのまま使用とするとこの小論の題名は「Profit as selfish meme」となるが、「meme」なる言葉があまり広く知られていないので「Profit as selfish gene」 (利己的遺伝子としての利潤)と表現する。 利潤は、インプットに対してそれに対応するアウトプットが量的に多いことと定義できるであろう。物理的に考えると、例えばエネルギーインプットを変換して違った形のアウトプットとする場合、変換効率が100%ならば、アウトプット/インプット比は1である。変換効率は理論上100%以上ではありえないから物理的には利潤はありえない。 経済活動において利潤を生む(アウトプット/インプット比を1以上にする)には、(a)アウトプットを過大評価する、(b)インプットを過小評価する、(c)アウトプット量を増して経済効果を狙う,(d)経済論的にはインプットと見なされないものを援用するなどの方法がある。しかも現在の経済体制の中では、「利潤」を増すことが経済活動の根本とされる。すなわち「利潤」を上げ得ない、または少なくともアウトプット/インプット比が1でなければ、その経済活動単位(企業など)は縮小を強いられ、いずれは存続不可能(破産)になる。これが「利潤が利己的遺伝子」たる所以である。 現経済体制では「利潤」は金額に換算して測られる。市場経済では利潤は、企業レベルでのそれと、投資家の側からの投資効率に反映されるそれとがあり、資本主義の露骨な面が露になってきた(新自由主義と称せられる)現今では、この後者の利潤が特に追求される。このため、投資家の利潤拡大が非投資家の犠牲の上に求められ、必然的に社会に経済格差が生じ、拡大される。似たような概念に拝金主義という言葉があるが、これは「利己的遺伝子としての利潤」と同じではなく、より一般的な概念である。例えば、拝金主義は、保険金欲しさに自分の子供も殺すなどという行為も含むだろうが、「利己的遺伝子としての利潤」に基づく行為とは言えない。現在の社会/環境問題の多くは「利己的遺伝子たる利潤」なるものの追求に起因する。 したがってこれからの人類が解決しなければならない問題の一つは、「利己的遺伝子たる利潤」なる通念を放棄し、他の概念に基づいた経済体制を構築しなければならないことであろう。この問題を考える前に、上に述べた利潤を上げる方策(a—d)がどのような社会問題(環境問題を含む)を引き起こしているかの2、3の例を上げておきたい。これは、かなり単純化した議論であり、正規の経済学的議論ではない(筆者は化学者)が、そのために却って、問題の在処が良く見えてくるのではないかと思う。 ▽「利己的遺伝子としての利潤」が引き起こす問題 (a)アウトプットを過大評価する─物やサービスをできるだけ高く売りつけることである。それには、寡占状態にもっていくこと、それができなければカルテルなどを結成するなどの方法がある。更に直接的な方法は金融操作(企業の売買も含め)で金銭的利潤を作り出すことであり、極端な場合は財政粉飾すら用いられる。今や見つからない限り、こうした方法をとるものが増える傾向にある。 (b)インプットを過小評価する─金銭的インプット、物的インプットを減らす。それには雇用者を安く使う(正規雇用を減らし、非正規雇用に多く依存)、人間を機械で置き換える(オートメ化)、人件費の安い所に営業を移動すること、アウトソーシング、安い材料を使用するなどの方法がある。環境への汚染などのインプットに加えるべき項目を無視する(後述、d)。 (c)アウトプット量はインプット量に対して直線的に増えず、アウトプット量を増やすと経済効果(増量効果)がある場合が多い。それは、インプットの一部が設備費などで、アウトプット量にはあまり依存しないからである。これは、大量生産を促し、したがって大量消費を奨励することになる。消費拡大─成長経済である。これが持続できないことは目にみえている。しかし、現在でも、経済界の最大の関心事は、消費拡大である。 (d)これは外部効果として、正規の経済学では計量されないインプットである。例えば、現在先進国の市民は豊かな食生活を享受しているが、それは長距離/迅速輸送に依存している。輸送の為の手段、輸送に要する人件費と費用(燃料費など)、物資の値段などは計量可能だが、輸送(例えば航空機)が与える環境負荷などは無視されている。更に、このような市場経済が生産者である市民に不利な影響(価格が低く抑えられている、環境を不当に悪化させているなど)を与えているがそれも計量されない。ある場合には、生産者の不満を抑えるために、輸出国の警察なども動員されるが、その費用も加えられない。こうしたことが、インプットを不当に低く見積もらせている。現在、他国の生産者に正当な生産費を払おうとする運動が起こりつつあるが、良い傾向である。 (e)以上の他に、利潤追求の経済社会体制が齎す問題は種々ある。例えば、利潤を直接的に追求する金融業が物作りよりも優先されるので、社会の実質的富(物質的、サービス的)は増えず、見かけの富のみが追求される。これはいずれは社会の破綻をもたらす(日本の90年代のバブルのはじけ、近年のアメリカ、イギリス経済の落ち込み)。 最も先鋭な「利潤」追求の問題は、破壊(人命も含む)を目的にした生産で、武器生産販売/戦争遂行によって利益を得るものである。これは公共財源を搾取するものであるし、人命という金銭的価値の計量不可能な存在(というインプット)を無視している。もちろん、こうした無視を許容する政治体制があるから可能なのであるが。 また社会的に意義があると認められても利潤が見込まれないものは遂行されないことがある。すべての社会サービスがこれに該当するが、新自由主義ではその多くが公共部門から私的部門(民営化)にまわされているのでこういうことになる。その他でも、例えば出版界は、売れて儲かる本のみを作り出している。ときたま社会的に意義があるものが出版されるのは、幸いにまだ意義の分る読者が利潤を見込める程度にはいることによるのであろう。 この退廃的資本主義市場経済(新自由主義)の基本的な問題の一つは、富の偏在(格差社会)をもたらすが、富に与れない多数が同時に消費者であることに起因する。富の偏在のために多数派の消費者が消費できなくなり(最低の生活すら難しくなり)、したがって少数派の富者は富を増やせなくなり、やがてはこの社会は問題(混乱、犯罪その他)を抱えながら、崩壊に向かわざるをえない。 ▽代わりの経済体制に移行するには 利潤追求に基づいた現社会経済体制をいかに(ii)、どのような体制(i)に変えて行くかが人類が直面している最大の問題の一つである。そのためには、「利潤」は本当に「利己的」で増大しなければならないものだろうかを考える必要があろう。「遺伝子」は、先にも述べたが「利己的」ならざるをえない。これは、人間にはいかんともなしえないものである。「利潤」という概念、特に現在の「利潤の偏在」は人間の作り出したものであり、人間が変更することも可能である。がこれが困難である。この考え方が社会の隅々まで浸透しきっているからである。しかし、これは全人類が考えなければならない問題である。さてこのような根本的な議論を行なうには、先ず経済とは何かを考えてみる必要があろう。経済とは「それによって人々が生活を運営しうる拠り所を提供しうるような体制」であると考えておこう。 (i)新しい経済体制の形:「利潤」に依存しないか、現在よりは「利潤」に依存する度合いの少ない経済体制にはどのようなものがありえるか。言い換えれば、「利潤」の代わりに何を根拠に経済を構築するか。これは、「利潤」というものを誰が享受するか、すなわち少数の投資家か多数への配分かという問題も包含している。利潤そのものは、外部効果などを正当に考慮するならば、現在よりも格段に少なくなる─理論的には「利潤」なるものはありえないのである。経済上の「利潤」の大部分は、不完全な計量を故意に不当に操作した結果にすぎない。正当化されうる「利潤」というものがあるとすれば、それは個人や企業の「社会的に意味のある創意」に対する評価を利潤の形で個人や企業に還元するもののみである。評価は利潤/金銭という形でのみ行なわれなければならないわけではないが。 さて、今後の経済体制の根本的条件は、それが人類がこれからもある程度の文明的生き方を維持出来るような配慮と施策が盛りこまれていなければならないことである。すなわち、いわゆる「持続可能」な社会/環境を可能にするような経済体制である。この条件と「利潤」追求が両立しないことは以上の議論から明白である。ところで、持続とは各国、各企業、各個人の現状を持続することではなく、全人類がその文明を持続することであり、そのためには個々の現状は必ずしも維持されない。 さて以上のような諸条件に適う経済体制にはどのようなものがあるであろうか。安原和雄氏の提唱する『仏教または「知足」経済』はその一つであろう。それは、この日刊ベリタの「コラム」欄にも何度か登場している。基本的には、これは消費者の態度「知足—足るを知る─」に依存するものである。この概念を企業の態度に適用すると、『「利潤」もほどほどに』となるのだが、先にも述べたように「利己的な利潤」は企業内の個人の思惑は無視して一人歩きをする。限られた地球上の資源で、これから何世代も人類が生きていくためには、消費(再生不可能資源)の制限、再生可能資源もその再生能力の範囲内での消費が必須である。 これを実現するには、外部からの強制に委ねる(配給制など)か、個人の節制力に依存するかのいずれかである。「知足」という概念は、この後者のやり方であり、個人の倫理観の変革がなければならない。さらに具体的な持続可能な経済社会体制全体のイメージを提供するものに、H. Bossel著『岐路に立つ地球』という著書がある(翻訳はあるが出版されていない)。また、「利潤」とそれの評価を経済指標とするGNP/GDPの代わりに「国民の幸福度」を指標にしようとしているブータンという国のやり方なども参考になるであろう。いずれにしても大変難しい問題であり、多くの人々の知恵を集める必要があろう。 (ii)さて次の問題は現経済体制から新しい体制へどう移行させていくかである。できるならば、大混乱を伴う急激な変換でなく、いわば「軟着陸」が望ましい。特に難しいのは、先進(大消費)国の消費を縮小することであり、これに伴う大幅な生活度の低下は、抵抗が大きくなかなか実現しにくい。エネルギ−消費を減少させながら、再生可能なものに転換させ、物質消費もいずれは、現在の20%程度にまで下げねばならないであろう。しかもそうしながら、生活度(幸福度)をあまり低下させない方法はありうるか。実は無駄を減らすことによって(必要消費量を下げることなく)50%位の減少は容易にできることは分っている─これはやる意志の問題である。 個人の消費を幸福度/生活度を下げずに減らすには、おおよそ二つの方法がある。一つは先に述べた「知足」の倫理を人々が獲得すること、すなわち個々人の意識の問題。もう一つも意識/倫理の問題ではあるが、「個人所有」の概念を大幅に放棄すること、そして個人の生活必需品以外の品々(自動車、レクリエーション用品その他)を人々/コミュニテイーと共有すること(公共交通手段は一例)。もっと切り詰めるならば、例えば冷蔵庫などもコミュニテイーで共有、いずれは、食事もコミュニテイーレベルでということになるかもしれない。 そうなれば、そうした生活手段を提供する側(企業)は、販売量の絶対量を大幅に低下させざるをえないか、販売量の減少をほかの方法で埋め合わせる必要がある。例えば、物を売る代わりに、物に付随するサービスを売る(物そのものは必然的にリサイクル)などの方法もすでに試みられている。また、大量の物資の長距離輸送は減らさなければならない。すなわち、生活基本物資(食糧、家屋建築材料、通常の衣料、飲料水など)は現地調達が原則にならなければならない。これらのことを、社会の混乱を最小限におさえながら実現する方向にどうやって持って行くか。 政治/社会組織面での変革も必要であるが、おそらく「知足」や「他生物や地球そして自分達の後から来る世代への責任感」といった倫理観が多くの人々に獲得されなければならないであろう。それなくしては、いつまでたっても人類は抗争に明け暮れ、そして地球が疲弊して、人類文明などは支えきれなくなる日が遠からず訪れるであろう。 落合栄一郎 |
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