近代国家は殆ど全て、国家の施策の一部として国民の教育を遂行している。これは厳密には、公教育にのみ言えることであるが、私立の学校運営も国家からの規制をかなりの程度受ける。となれば、国家権力は教育というものを、権力が行おうとする政策に好都合な方向に持って行こうとするのも当然であろう。その上、学校運営に必要な財政的側面は、自治体と国家が牛耳っている。
完全に民主的な国家があるとして、教育の仕方に国民が十分な意思を貫徹できるならば別である。すなわち、国家権力に追従しない教育を行うことも可能ではあろう。しかし、この場合でも公教育では、多数に迎合する教育しか出来得ない。この悪い例は、アメリカの初等・中等教育でみられる。それは、このレベルの教育方針は、地方自治体で決められるのだが、キリスト教原理主義などに凝り固まった人々が、その方針を決定するにあたって、前近代的な考え方(「進化論」対「聖典による人類創造神話」など)を学校教育に加えようとするし、現に今でもこのような運動はアメリカ各地で起っている。
以上簡単に述べたことは、いわゆる組織的学校教育のことである。教育は広くいえば、人々が接するあらゆる経験を包含する。生まれ落ちた時(いや胎内におる時)からの、家庭内、家庭外、全ての人・社会・自然との一瞬一瞬の接触に基づく体験の積み重ねが一人の人の全教育の内容である。ここでは、そのうちで、最も重要な、家庭とその周辺での教育(通常の生活)と学校教育を考えてみる。このシリーズの主題である「持続可能な人類文明」確立にとっての教育のあり方という点からこの問題を考える。人間の質の向上こそが、人類の生き残りにとって不可欠であり、人間を育てる広い意味の教育が今後の人類にとって最も重要なものであるという認識に基づいて考えてみる。
(1)家庭およびその周辺での教育
一人の人間にとって、通常誕生からの数年間の教育が最重要である。生まれた時には,基本的な配線しかもたなかった脳は、生まれてからの一瞬一瞬に受け取る情報・刺激によって数百億にのぼる脳細胞間の配線を行う。目に入る刺激を外の光やものの形として認識できるような配線も行われる。やがては母親の顔を認識するようになる。幼児期の親兄弟、特に母親との接触、もう少し成長してからは、これらの家族やその周辺からのインプットが、その人のものの考え方、見方などの基本が作られる。このように初期に配線された脳を、長じてから変えることは、非常に難しい(不可能ではない)。「三つ子の魂百まで」と言われる所以である。
中近東、東アジアから欧米にかけての一神教の文化では、その中心に「唯一絶対の神」の観念があり、その正当性を確信するあまり、それを(善意から)親から子供達に伝えようとするし、そういう伝統はすでに長期にわたって受け継がれてきた。特に、原理主義的傾向の強い家庭や社会では。こうして育てられた人の多くは、後に原理主義的教条に反する合理的・理性的・科学的なモノの考え方についていけないし、強い反撥を感じる。このような教えの中心には、各々の信じる神の絶対性に基づいて、それを信じる者は、「神に選ばれた」ものとして「救われる」と思い込む傾向もある。「原理主義」的とはいかないまでも、こうして自分達の生き方を正当化する傾向がある。逆に、そうした「神」を持たない・信じない者を哀れに思ったり、人間以下と看做したりし、「異なる神」を信じる者は排撃したりする(傾向をもつ)。宗教というものが、こうした文化では、人の成長・世界観・価値観の獲得に絶大な影響を与えている。
宗教的なものではなくとも、人はそれぞれ「世界観」や「価値観」(カネが唯一の価値であるとか)をもつ。それは主に、親(祖父母も含めて)から子供へと伝承される場合が多い。最近では、それほどの影響力を持たない親が増えていると言われるが、親子の関係が希薄化しているのであろう。
もう一つ、現代の子供達に影響を与えているものに、テレビ、コンピュータ−ゲームなどの、非人間との接触がある。様々な影響があるに違いないが、その影響の是非については、おそらく後2世代ぐらいたたないとはっきりしたことは言えないのかもしれない。ただ、コンピュータ−ゲームの多くが、攻撃的戦いを主題にしている。そのようなゲームが子供(大人も)を興奮させ、夢中にさせ,したがって、制作会社にとっては利益があるからであろう。アメリカなどでは、テレビ番組にも暴力を主題にしたものが相変わらず多い。これにのめり込んだ子供達(大人も)はそうした暴力場面に不感症になりがちになるであろう。そうした人々が現実の戦争(暴力)に直面した時どのような行動をとるか、危惧されるし、アメリカ社会ではその影響はすでに濃厚である。
もっと基本的な問題は、幼児期の子供が持つ好奇心をどのように家庭内・外、学校で良い方向に向けてやれるかどうかである。このような好奇心は人間に固有で,おそらく、脳の構造からして自ら配線を作り出すことに気持ちが向くのが、その原因であろう。そしておそらく好奇心を満たすことは、人間にとって最大の歓びの一つなのではあるまいか。これが、学習・学びの基本になるべきなのであるが、社会も親も、なんらかの利得のため(入試突破、有利な就職などなど)に学習(勉強)するものだと思っていて、子供もその考えに染まってしまう。
もう一つ社会一般の問題は、テレビその他で、最も広く提供され、視聴されるものは、いわゆるエンターテインメントであることである。芸能、音楽、美術など人間の感性を育てる様々なエンターテインメントまで否定するわけではないが、現在提供されるエンターテインメントの大部分は、人々の低部をくすぐる大衆迎合、またはそれを押し付けようとするものが多いように見受けられる。こうした報道関係の行き方は、本当に人々が知る必要があると思われることを知らせずに、それを糊塗するためにしているかの感すらある。
(2)学校教育
(2a)初等・中等教育
国家が組織する学校教育が広く行われるようになったのは、全世界的に見て、ここ1世紀ほどのことである。日本では江戸時代(1600−1857)には、幕府および各藩は、官制の学校を作り、権力維持のための教育を行った。しかし、これは人口の1割ほどの武士を対象にしたもので、それ以外の一般人には、なんらの教育施設も提供しなかったし、そういう組織だった教育を施そうという意識も意思もなかった。こういう事情は、19世紀半ば頃までは、日本に限らず殆どの国(欧米)で同様であった。日本は、しかし、江戸時代、人民自らが学ぶ機会を作りだした。これは世界中でも例外的なことであった。いわゆる「寺子屋」による学びであるが、権力からの指導はなく、人々が生活に必要な基礎を学ぶ呈のものであった。
さて国家が提供し、(多くの場合)市民に義務づける学校教育はどのようなものであろう。市民に学ぶ機会を提供することは基本的には良いことであるし,必須である。国家の意思のいかんを問わず、市民が学ぶべきことは多々ある。読み書き・算数などなど。これらは、人が社会の中で生活するのに必須である。体育・情操(美術、音楽など)なども人として生きるに必要な基礎である。
「社会科」「歴史」(道徳教育に利用されることがしばしばある)「理科」などの教育には、教育を提供する側の意思が反映されがちである。日本の歴史教育は、そうした権力側の意思による歪曲が行われた典型例である。第2次大戦以前の日本史の教育では、皇国史観に基づく歴史が教えられ、時の権力の行おうとする近隣諸国侵略を正当化するための他民族蔑視の精神を植え付けるような教育を施した。また、第2次大戦後の歴代政権は、日本市民が、明治以後の日本の、いわば負の歴史の真実を学ばないような施策を施してきた。このような態度は、特に近隣諸国との関係を正常化するにはマイナスであるにも拘らず、未だに改善されていない。これは現時点での、日本の教育で改革すべき最大の問題点である。
このようなことは、しかし日本に限らない。アメリカ国民も、おそらく中国国民も、自国の権力にとって不都合な歴史的真実は、十分に教えられていないのではないかと思う。ドイツでは、第2次世界大戦時の自国の過ちを十分に国民に教育したと言われてはいるが。多くの国で、時の権力に不都合な歴史は国民の目につかないような教育が施されている。この事実は、人類がその過去の真実を知り、反省し、過ちを再び繰り返さないようにするための基本的情報が十分に人々に知らされていないことを意味する。最近、ウィキリースにより暴露され始めた世界各国権力の表面下の真実は、こうした人類共通の問題の一部である。
(2b)高等教育
「理科」教育は、国のイデオロギーには左右されないと思われるだろうが、そうではない。特に高等教育レベルに於ける「理科」の研究は、国家の政策に非常に左右される。直接的には研究費配分の仕方によるが、大学レベルの教育にも、国家の要請が反映される。日本では、明治維新による開国に伴い、欧米に速く追いつくために「科学・技術」教育では、「工学」が「理学」に優先され、また、まずは外国からの知識導入に主眼がおかれた。これは、日本がその当時置かれた事情から当然とられた措置であるが、それをいつまでも引きずっていた。最近、ノーベル賞受賞などから見て、少しは改善されたのかもしれないが、また若い世代が内向化し始めているようである。外国からの知識導入の傾向が終止符を打ったという意味もあるだろうが、外国へ出て、違った環境、ものの考え方などに接することも、独創力養成のためには有効であろうから、こうした若者達の内向化は危惧される。高等教育に関してはまだまだ多くの問題があるが、ここでは省略する。
(3)論理的思考/批判的思考能力
教育のあらゆる段階で強調されるべき点の一つは、論理的・合理的思考の養成である。こういう思考が容易に適用されうる分野は、「自然科学」であるから、「理科」では、こうした能力を引き出し、育成するような指導が必要である(初中高等教育それぞれの段階で)。ただ単なる暗記強要などはもってのほかである。そんなものは教育ではないし、現在では、コンピュータ−のほうが、より正確に長期にわたって記憶できる。
社会科学・政治・経済などでも、論理的思考能力は必要だが、複雑な問題で、論理的思考以上の判断力が要求される場合が多い。この判断力には、ただ単に既成の基準のみで評価するのではなく、新たな視点から批判的にみることも必要である。特に,既存の「経済学」その他の見直しが必要とされている時に、批判的・懐疑的に、そして建設的に判断する能力が必要とされる。実は、こういう能力を養成することは、多くの国で奨励されていない。むしろ反対に、無視・抑制されている。
アメリカの現在の経済危機の源は、新自由主義・市場経済・金融重視の経済であるが、問題意識を持たずにそれを押し進めたのは主要な(いわゆる)有名大学の優等生達である。彼らの多くは、問題を意識してもいないようである。もちろんそれ以外の殆どの大学でも、こうした批判精神を養成することは行われていない。批判的な精神を持ち、現状批判を表に出す学者の多くは、何らかの理由をつけられて大学を追われることが多い。これからも、大学を含めた教育というものを誰が最終的に管理しているかがわかるであろう。この文の最初には、国家権力と書いたが、それを裏から操る支配層である。
(4)未来教育を
歴史は繰り返すといわれ、人類は「過去」から学ぶべきことが多い。したがって「歴史教育」は重要である。これにはある程度の真実があるが、歴史は完全に繰り返すことは決してない。特に、これからの1−2世紀の人類の未来は、過去にはなかったことが出て来る可能性が大きい。それは人類または、その文明そのものが存続出来るかどうかの瀬戸際に立たされる可能性である。可能性より、現状を変えない限り、殆ど確実にそういう時がやってくる。それが何時、どのような状況でやってくるかまでは確実に予測できないが。
人類が生き残るためには、それに備える教育が広く行われなければならない。どういう教育か。まず、人類・人類文明の存続が疑わしいのは本当だろうか、現状のどこに問題があるか;十分に批判的に議論する。その上で、ではそのような人類の未来を避けるためには、どこをどう変えるべきかを考える。人類文明の持続可能な未来像はどんなものだろうか。これらを、十分に議論する雰囲気を特に高等教育レベルで作る。そして政治・経済の実務者にそういう考えを浸透させていく。または、そうした考えを持つ若い世代が政治・経済に積極的に参加していく。こうしたことを、これからの高等教育では、重要な柱の一つ、というより中心の柱として、それに相応するいわゆる学科・学部を創出する。これらの学科とか学部は現存のものものような、その内にこもって独りよがりな研究こそが良いというようなものであってはならない。以上。
(なお、「持続可能な人類文明」の一つのあり方を「病む現代文明を超えて持続可能な文明へ」(本の泉社、2013)で論じたのでご参照ください)。